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カテゴリ:本田宗一郎
夏のスイカ畑で、 一人の少年がキョロキョロとなにやら周囲を伺っている。 少年は、友達から ”ハナ黒の宗ちゃん”と呼ばれていた。 少年は、こっそりスイカ畑に忍び込み。。。 スイカの下の部分に穴を開け、そこから中身だけを食べ切り、 からっぽになったスイカを丁寧に元に戻して一目散に逃げていった。 そう、 口の周りを、べとべとに真っ赤にして走りながら笑っている少年こそが、 のちに本田技研工業を作ることになる、世界のHONDA、本田宗一郎だった。 いまでは 当たり前になっているオートマチック車という車がある。 この技術、もともとはアメリカのメーカーが開発した技術で、 すさまじい特許の網で守られていた。 そのため日本車メーカーは。。。 トヨタ自動車。 オートマ車のノウハウを持っているボルグワーナー社と組み、 アイシン精機と合弁会社を設立。 日産自動車。 フォードとマツダの間で進められていた合弁会社に通産省の肝いりで参入し 日本自動変速機という会社へ資本参加。 このとき、 日本の大手自動車メーカーと異なる対応をした会社があった。 本田技研工業だった。 本田だけは、 アメリカの特許を安易に使用するのではなく独自技術でオートマ車を開発することに決めた。 そして、 今も伝説の名車といわれる、ホンダの軽自動車、”N360”が生まれる。 N360は、発売後、たちまち3ヶ月で軽自動車の販売トップに立った。 この自動変速機が搭載されたN360の発表会の席上 本田は、記者のインタビューにたいして、こう話をしている。 ”オレッちのところの技術屋は大したもんだ。三万件もの特許をかいくぐって 完成させたんだぞ。すごいもんだろう!”と 鼻高々と社員の努力を褒めたたえたのだった。 本田は以前、チャレンジ精神について質問されたとき。。。 ”よくホンダは成功した、ああすばらしい”と簡単に人は言うけど、成功の陰には どれだけの失敗があったか。従来の常識というものは破られる為にあるものであり、 そのため能力を酷使しなければならないもんなんだ。 苦しい時もある。 夜も眠れないときだってある。 どうしても壁を突き破れなくて、 ”俺はダメ人間だ”と劣等感にさいなまれたことだってしょっちゅうあった。 その繰り返しだよ。 しかし、その悩みを乗り越え、すこしでも前に進んだときの喜びは大きい。 それが、次の壁に挑戦する意欲につながるもんなんだと思うよ。” 本田は、常々、”模倣はダメだ。どこにもないものを。自分たちだけの力で作る。”という ことをモットーにモノづくりに励んできた男だ。 自転車にエンジンをつけた、”バタバタ”から始まり、 オートバイ、そして国の政策に真っ向から反対し、とうとう自動車の開発へと 夢を拡大させて言った男。 あまりご存じないかもしれないが。。。 アメリカに日本で一番早く、自動車の工場を作ったのは、 トヨタでも、日産でもなく、ホンダなんです。 だからこそ、今でも、フロンティア・スピリットの国の人々は、 自動車のマーケットシェアとはまったく関係なく、 本田宗一郎という男をリスペクトし続けているのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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