さらに続きの話
クボタ機械の三木さんの話をする上で、今回、お米の話からスタートさせていただきます。 米の価格の歴史 大卒の初任給 米一俵(60キロ)の価格 昭和36年 15,700円 4289円平成15年 201,300円 13,748円昭和の中ごろまで、たった4俵(240キロ)程度のお米の収穫で、農家にもたらされる収入は、大学を卒業した人の初任給よりも多かったのだ。このとき、農家の跡継ぎ問題はなかった。それもそのはず、リッチな生活が約束されていると思われていたのだから、あとを継ぐのは当たり前だった。現在の国会議員の半分以上が二世議員というのと、どこか似ている状況だった。しかし、その後、日本人は、お米を食べなくなる。米の消費はどんどん下がってゆき。。。昭和37年ごろ、一人の日本人は、平均で一年間に、”118.3キロ ”のお米を食べていた。ところが。。。平成18年には、一年間に、61キロのお米を食べるのがやっと。。。それは、お米のライバルが多彩になったからだ。パスタ、パン、ウイダーインゼリー、カロリーメイトなどなど。。。だいたい、今まで減反により。。。日本の水田は、滋賀県と同程度の面積が消失してしまったらしい。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。本題。昨日、書いた日記は、成長著しい海外の事例なので参考にならない。と、言われてしまったので。。。今日は過酷(かこく)な国内の事例を紹介したい。再びクボタ機械の三木さんに、業務依頼がはいる。それは、(株)クボタの田植え機事業部の再生だった。前段で紹介したように、日本の稲作は凄まじい逆風の中にあり、当然、(株)クボタも売り上げが低迷し、田植え機事業部は赤字に転落していた。三木が着任した時、年間8億円の赤字を出していた。三木が、田植え機事業部に着任すると。。。社員の士気は。。。かなり低かった。朝礼ぎりぎりに出社してくる人も多かった。三木は思った。”赤字事業部であるのに。。。どうなってるんだ!まったく!”三木が、まずはじめに感じたことは開発者が赤字であることをあんまり気にしていないということだった。もちろん赤字であることは知っているのだが、それを自分の問題として仕事に取り組んでいなかったのだ。三木は、会社の経営幹部に実情をしたためた上申書を書いた。すると、上申書を読んだ経営幹部に呼ばれ尋ねられた。”いったいどうしたらいいだろう?””きみの上司の技術部長を他部署に移して、三木君を昇進させようか”といわれた。三木は断る。そして、仕事をしない部長を、そのまま置いてもらうように頼みます。三木は言います。”わたしが部長になってしまうと、 管理職としての仕事に忙殺され、開発の実務に集中できません。” ですので、管理業務の仕事は、今の部長にそのままお願いし、 わたしは、組織の再構築、開発方針、部内教育などの根っこの部分となる 業務をわたしに取り仕切らせていただく権限をいただきたいのです。”ということで、三木は部長代行という、お墨付きをもらい改革を始めます。三木が部長代行となった時、進行中のプロジェクトがあった。それは、報告によると、田植え機事業再建の切り札として位置づけられていた新機種の開発計画だった。三木はめまいがした。くらくらくら~” 2.3パーセント!? ”報告では、その新機種を発売することで利益率が2.3パーセント改善するという。8億円もの赤字をつづけている田植え機事業部で、その程度の利益率の改善では。。。たとえば、ダイエットを始めたといって、チーズバーガーから、ハンバーガーへかえる程度の効果しかないようなものだった。そして、再建の切り札という新機種を見せてもらうと。。。田植え機のミッション部分をテーブルの上にのせると、。。。まっすぐに立ちませんでした。。。斜めになった。稚拙(ちせつ)な設計だった。三木は、いったいどんな図面なのかと見せてもらうと、とにかく、やたらと複雑な設計になっていた。もっとシンプルな構造にできるはずなのに、それをしないで従来の構造と接合している。そのため、必然的にムダだらけになっていた。三木は、毎週金曜日の朝、30分、部員全員(70名)参加の勉強会を始めた。三木は話す。”そもそも田植え機というものを農家の方は、どんなふうに使っているのか?”この問いかけに答えられる部員はいなかった。じつは、三木は、”現地”、”現物”主義のバリバリのリアルな人だった。分からないことがあると、よく現場に行った。そう、以前あった映画のキャッチコピーのように。。。”事件は会議室でおこっているんじゃない、現場でおきているんだ!”三木はいう。”ふつう。。。 普通の農家であれば、田植え機などというものは、 せいぜい一年に1~2週間、田植えの期間に集中的に使って、 あとは次の年まで納屋の中に置いておくものです。 自動車のように終始乗るものじゃない。 なのに、なんで年に1~2週間しか乗らないものに、 ギヤ変速のような複雑なシステムを持ち込む必要があるのか? 高齢化の進んだ農家の方が、こんな複雑な運転の操作が出来ると思うのか?””どうして、レバー1本で前進もバックも出来るようなシンプルな構造にしないのか?””あちこちさわって、クラッチペダルを離してようやく動かせるような田植え機を、 ほぼ1年に一回しか乗らない農家の人が歓迎するだろうか?”こうして三木は、ほぼ完成まじかとなっていた再建の切り札と呼ばれていた田植え機を、部員全員納得のうえ、中止してしまった。全面的に図面を書き直すことにしたのだった。そしてシンプルなところは出来るだけシンプルな構造や機能に改めていった。しかし、従来の仕事の仕方から脱却できない部員は。。。なかなか三木の言うことを聞かなかった。赤字部署によくありがちな、”前例”や”慣習”の壁はとても厚かった。三木は、この壁を取り払うために様々な手法を取るのだが、その中のひとつをご紹介したい。三木には持論がある。”この世の中のかたちあるものには、すべて図面があるわけですが、 すぐれた製品にはかならず、そのすぐれた品質のもとになる構造や部品が潜んでいます。 特に競争の激しい業界を生き残ってきた製品には、 そういう技や知恵の宝庫となっている場合が多いのです。”三木は知り合いの自動車整備会社から、中古のトヨタのカローラを1台購入します。そして、みんなで分解し、あらゆるカローラの部品を調べることにした。日本一の販売台数のトヨタ、カローラを分解し、一台の車に込められた技と知恵のすべてを学び、自分達のつくる田植え機に活かせるヒントを見つけようとしたのだった。具体的には、部員それぞれが、いちばんいいと感じた箇所を”絵”に描き、なぜ、そこがいいと感じたのか、その理由を書いて行くことにした。すると、いいと感じた箇所は、だいたい一人につき30項目以上となった。三木に言わせると、いいなと思った箇所を”絵”に書かせてゆくことはとても重要なことだという。ことばやデータより絵の方が技や知恵を学び取るために効力があるからだ。結果、三木の田植え機事業部の数字はどうなったのか?国の減反政策の影響もあり。。。三木が着任して3年後、事業部の売り上げは15パーセントも減ってしまった。しかし、三木の着任した1997年度、8億円あった赤字は、2000年度、4.3億円の黒字に変わっていた。そして三木のチームが開発した田植え機は、年間1万台を販売する名機となった。(株)クボタの田植え機の市場シェアは、長らく23%程度だった。当時、業界大手といえば、ヤン坊、マー坊、天気予報のヤンマーやイセキだった。ところが2002年の頃になると、クボタの田植え機は”安くて””性能が良くて””乗り心地がよく” 農家の評判もよく、よく売れた。結果、(株)クボタの市場シェアはぐんぐん伸び45パーセントまで上昇し、田植え機業界のトップとなってしまった。その後、三木のチームが開発した田植え機は、グットデザイン賞にも輝き、ますますよく売れた。三木は言います。”わたしが、コストを下げれば、品質は向上する。”というと 今でも理解してくださる方は、まだまだすくないです。 それどころか、”部品が少ないと機能が落ちるだろう”とか ”肉厚を薄くすると脆弱になるだろう”と心配する人の方が多いのです。 結局、そういう人たちには、実際にそれを実現している製品を創ってみせないと 信じてくれないのです。 でも、わたしがやっていることは単純に部品を半減させているだけではないのです。 部品を半減させる代わりに、たくさんの技と知恵を盛り込んでいるのです。” いい製品の図面。。。 製品の図面とは、多くの線によってかたちづくられております。 多くの線ではありますが、 いい製品の図面というものには、ただの一本も、ムダな線はないんです。 そこまで仕事を掘り下げてゆかないと、本当にいいものはできないんですよ。