「お前の父親のは、ちっこい葬儀だな」
父は行くたびにどんどん弱っていました。自力でベット傍のトイレにも行けなくなり、紙おむつになるとほとんど寝たきり状態になりました。気品と威厳のあった父は、抜け殻の様になっていきました。週4日医師や看護婦ヘルパーがきますが短時間です。食が減り、やせた父ですが、母と二人がかりでもお世話が大変でした。このまま実家に泊りがけになると困るなと思いました。夫と家庭内別居でも 私の一番落ちつける場所は 娘たちと4人で暮らす都心の3DKの賃貸マンションでした。そこの台所が私が一番使いやすくて、寝室で身体を休めることができました。好きなものに囲まれた私らしい空間ができていました。仕事もそこが基盤でしたし、働かないと最低限の食べるだけの生活になってしまい、私も娘も困るのです。私の医療費や実家に通う交通費も必要だし、私も娘も趣味の費用が大切でした。母は専業主婦・・・5人で暮らしてた昭和40年代半ばから50年代に食費に10万は使ってたそうで私から見たら贅沢だし、父は 酒もたばこも嗜まず、家を建て3人の子供の養育費をだし立派な父親で働き者だったと思います。母は冠婚葬祭のため、桐ダンス一棹いっぱいの高価な着物を作りました。もう道楽だと言ってますが・・・母私妹の晴れ着から訪問着、黒留袖、喪服は 夏用まで作りました。私は成人の晴れ着を一回着ただけ、せっかくの着物も 着付け代がかかるので結婚後、着たことがありません。どうせなら悲しいけど現金が良かったです。まあ道楽ができるぐらい実家は父が働いてくれて母もかなり裕福だったのです。映画や博覧会、家族で読書を楽しみました。私も趣味を十分楽しむ生活ができました。それでも母は 子供に十分習い事や大学にやれなかったので貧乏だと思ってたようです。そういう母なので 私の現状は まったく理解できないし、父の介護で精一杯でしたので、私もいらぬ心配はかけられません。父は肺炎になり、入院になりました。母も私も倒れそうな状態でしたので正直ほっとしました。見舞いに行くと「帰れ」と言うのが口癖・・・母は、ほとんど毎日見舞いに行ってました。病院が移動になりました。はじめ個室で大部屋に移り、退院の運びの頃父は私に「もう、帰りなさい」と言った後、20分後に母に手を握られながら亡くなりました。携帯を持ってなかったので 死に目に会えませんでした。葬儀の段取りは妹弟がしてくれました。小さな式場でしたが遠方そして近所の人も駆け付けてくれて父らしい葬儀だったと思います。ヘルパーさんが大泣きしてましたが私も母も泣けませんでした。でも夫が「お前の父親のは、ちっこい葬儀だな」と帰宅後言いました。「義父の大掛かりな社葬と比べられても・・・小さいけど父の残したお金でしたんだよ。」父が亡くなったことより、夫の心無い言葉に涙が溢れてきました。にほんブログ村にほんブログ村毎回長い日記を読んでくださって ありがとうございます。もういろいろありました。自分でも呆れるほどです。