アンゲロプロス映画のイマジネーション
今月は来月に続いて、ギリシャ映画の巨匠テオ・アンゲロプロスの特集をケーブル・テレビの映画専門チャンネルでやっています。前にもお話したように、Rokku もケイトもアンゲロプロスの映画が好きで、まだ結婚したての頃にはよく名古屋まで出かけて映画を見たものですが、その中でもアンゲロプロスは二人の大のお気に入り監督でした。ちょうどその頃『シテール島への船出』が名古屋今池のシネマテークに来ていて、お気に入りには違いないが、途中で寝てしまうので、見逃したところがなんとも口惜しい。それではもう一回見に行こうということになり、週に二回も同じ映画を見に、名古屋までわざわざ出かけていったのでした。当時はお気楽なモンで、映画を見に行けば、たとえばお昼でも今のパルコのところにある「やぶ」で掻き揚げ蕎麦を食べたものです。二人で行って帰ってくると一万円ぐらいかかったような気がします。贅沢なことしてましたね。バブルだったのかなあ、ココロが。今から考えてみると。名古屋駅近辺の寿司屋に入って、カウンターで適当につまんだら一万円とられたような気がする。二人で二万円かな? そういえば、あの寿司屋なくなったのではないかな、「つねいち」とかいったような気がするけど。話を映画に戻して、その『シテール島への船出』だけど、あの頃だったと思う、自分の中で「寝てしまう映画=いい映画」という等式が成立したのは。わくわくするのもいい映画なんだけど、絶対起きていたいと思っていても、つい寝てしまう映画というのも、実に心地いい映画なんですね。タルコフスキーの『ノスタルジア』もそうだった。さて本題です。アンゲロプロス映画が掻き立てるイマジネーションについてです。この前、そのケーブル・テレビの特集で久しぶりに『旅芸人の記録』や『シテール島への船出』を見て、昔若い頃にやっていたアンゲロプロスの神格化を少し対象化できたような気がするので、ちょっとそれについて書いてみたいと思います。アンゲロプロスのすごいところは幾つかあるけど、何よりも思うことは、ほとんど語らないことです。映像で勝負しようとする。映画は音もついているのだから、セリフをガンガン言わせて役者にしゃべらせて内容を理解させるのも一法なのだけど、もともとサイレント映画といって音がなかったせいだろうか、ヨーロッパにはほとんど強引としか言いようがないほど、セリフではなく映像で物語の進行を分からせようとする傾向があります。ですから、別に映像で勝負!というのは、アンゲロプロスだけではないのだけど、彼の場合、さらに、映像ですら見せないことがあるのです。たとえば、『旅芸人の記録』を例に簡単にご紹介しましょう。この映画は、ギリシャの30年代から50年代までの現代史を旅芸人一座の視点を通じて描いた、傑作の誉れ高い作品ですが、その中に、第二次世界大戦後の内戦状態を描写したところがあります。具体的な名称までは覚えていませんが、王党派に類する集団と、戦後のアメリカなどの外国文化を積極的に導入しようとするグループとの対立が、あるダンス・パーティでの確執を通して描こうとするその描き方に、いわゆるセリフはありません。まず進歩派と思われる人たちがスイング・ジャズで踊っています。そうすると、見るからに王党派と思われる伝統的スタイルのギリシャ人が、ピストルを一発空に向かって撃ちます。ダンス・パーティの空気が凍ります。進歩派と思しき人々は逃げるようにしてその場を去り、次に王党派グループが、いかにも伝統的なスタイルを思わせる歌をみんなで歌い、踊るのです。それがみな男ばかりですから、その前のスイングの男女で踊る姿とは実に好対照、セリフのやりとりがなくても、このダンス・パーティの光景一つで、起こっている事態が実に象徴的に理解できるようになっています。セリフ無しの映像で勝負した有名な成功例です。ギリシャの複雑な歴史にはまったく無知ですので、前後を間違えているかもしれませんが、その王党派は軍事政権と結びつき、近代的な意識を持ったレジスタンス・グループは追い詰められていきます。それがどのように描かれるかというと、ほとんど行進で描かれるのです。たとえばデモ行進のグループが一つ広場に集まると、一発の銃声が響く。続く銃声。必死に逃げ惑う人々。撃たれた人の動かない体が幾つか散在するだけの広場が、何の物音も、ナレーションもなく撮りつづけられます。次は夜の場面です。辻と思われるある一箇所が撮影されています。そこをレジスタンス・グループが逃げるようにして通り過ぎていきます。カメラは街路に挟まれた、暗闇に覆われたその辻を写すだけです。もちろん、もうレジスタンス・グループはいません。続いて敵のグループが放つ銃声が聞こえます。聞こえるのは銃声だけです。カメラはあいかわらず辻を写すだけです。どれほどの長さでしょうか、結構なロング・テイクですよ。でも、スクリーンに映っているのはその辻だけです。でも、レジスタンス・グループの旗色の悪さだけはよく分かる。そして、場面は別のところに変わってしまい、説明らしい説明は一切ありません。こういう場面の連続ですから、いやがうえにも、イマジネーションは膨らみます。そこが実に楽しいところなのですが、あれから20年ほどの歳月が流れました。Rokku もいろいろな映画を見、勉強もしました。わざと写さないで、見る者のイマジネーションを刺激する手法は、たとえばアントニオーニに顕著ですし、彼の『情事』が最初かもしれません。ブレッソンの『すり』もそこがたまらない魅力となっている映画です。そういう技術の踏襲として、おそらく、アンゲロプロスの見せない映画もあるのでしょう。でも、今回偶然見なおしてみて、もっと単純に分かったことがあります。そう難しく考えなくても、即物的に、たぶん彼にはそうしなければならない必然があったことに気づいたのです。そう、お金がなかったんですね。戦闘場面も、エキストラの人は要るは、火薬はいるは、壊すものは造らねばならないはで、想像を絶するお金が要るという話です。ただでさえ彼の映画は長いのに、丁寧に分かり易く描いていたら、それこそ日が暮れてしまうでしょう(80年代のベルイマンの映画『ファニーとアレクサンデル』は確か5時間ぐらいあったと思うので、日が暮れるというのは比喩ではありません)。分かりにくくなるのは承知の上で、省略するしかなかったのでしょう。戦闘場面も想像力に訴えるしかない。広場のシーンだって、銃声はお金がかからないし、人を走らせて、死体と思われる人々をカメラがなめていけば、それなりに観客の想像力は掻き立てられます。そういうイマジネーションに訴える手法にはうってつけのセリフの少なさですしね。ハリウッド映画の分かり易さとは、決して文化的な特性とかいうものではなくて、結局、お金があることの裏返しなのかもしれません。ところで、久しぶりにトップ・ページのワインご紹介を更新し、7月と8月に日記でとりあげたワインを並べてみました。ご覧ください。情報は取捨選択し、残り本数も含め、現在の情報にアップデートしてあります。