カテゴリ:スーフィズム
スーフィーでは、よく使われる言葉に
Remembrance というのがある。 Sufi Remembrance 訳せば、記憶、思い出、記念 と辞書にはあるけれど、 私はこのSufi Remembranceというのは 「想起すること」「思い出す事」 だと思っている。 ただ、私達は忘れてしまっているだけなのだ。 だから、それを思い出せばいい。 赤ん坊のころの、まだ何にも染められていない 純粋無垢なままの、自分自身を思い出すこと。 それは、呼吸法や、マントラ瞑想など、 単純な修行法で、想起を呼び覚ます。 スーフィーで使われるZIKRという呼吸と マントラを使った瞑想法では、ある独特なサウンドと動き、 また、マントラを使うけれども、 ここでも私は禅や仏教の念仏などと、たいへん手法が似ていることがあるなぁ、などと思う事がある。 ただ坐って呼吸を見つめる禅や、念仏、 また、ハラ、腰、足先など、意識を保つ、など。 ちょっと、無理やりかもしれないけれども。w トルコでのデルガーでは、男達はみな正座して円陣を組んで坐る。 音楽と経典の祈りがはじまると、 ハラの中心に向けて呼吸をはじめる。 ハイハイハイ、というサウンド。 イスラムの言語でハイとはLIFE「生命」という意味だ。 「ハイ」というサウンドをハラに打ちつけるように響かせる。 吸う息と吐く息で独特のサウンドが派生し、大きくうねりを響かせる。 片方の手は始終胸に置かれ、 ハラとハートと、そして体の中心部分、尾てい骨から頭頂 それが一本につながるような、激しく太い呼吸だけのサウンドが生まれる。 そののちの静寂。 音楽が鳴り止み、そして沈黙する。 以上が呼吸を使ったZIKRという修行法の簡単なあらましだ。 しかし、その場の雰囲気というのには、まさに圧倒される。 日本のお寺などでも、経典を読みあげるその声が一種独特で 崇高な感じがあるけれども、そのような雰囲気と一部似ているような気もする。 マントラを終始唱えているとある種のトランスに入り込むのだろうか。それはよくわからないが、 人々が集い、呼吸を見つめ、個々それぞれに静寂のスペースに落ちていく時、まるで大海に漂う、一滴のしずくのように、 それは全体に帰し、存在と溶け込む。 禅でも言われることがあるように、 ただ、あるがまんまでなにもない。 まったく自分がなんにもない。 だが、あるがまんまのうまれたてのそのもの。 そのものであったまんまのものをただ差し出せ、と。 (たしかこんな風ないいまわし?)'-'*? なんにもない、まっさらなその無の空間になげだされ、 境界もなく、分節もなく、ただあるがままで息をつく。 呼吸はなんとはぜずとも呼吸であって 心臓はたんに動く、 それすら認識することなく、 ただそれはたえず流れる 思い出すこと 人はもとあるそのものそのまんまを たんに思い出しさえすれば それは変わりなくそこにいつまでもあるのだと すでに知っているのだ。 それが、愛、というものであれ 悟り、というものであれ、 定義など必要もない 愛など知らない、なのではなく、忘れてしまっているだけ 悟りなど知り得ない、ではなく、たくさんのガラクタで埋まれているだけ・・・ 私たちは、分かり得ない、のではなく すでに「知る者」「そうであるもの」なのだと思う。 たんに思い出せばいいのだと、 私はスーフィーの実際(もしくは禅)において、 いつだってそう思うのでした。 思い出す事。 Remembrance PS (((禅を語れるほど精進はいまだしておりませぬが。。。))) 敬具 はい、思い出すために坐ります。じゃあ、またね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jun 16, 2006 01:25:31 AM
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