列車脱線事故の教訓を広く考える。
今朝(10日)テレビ朝日を見ていたら、福知山線の列車脱線事故について3つのポイントを問題視していた。1、利益重視。2、モノが言えない。3、セクショナリズムこれを今問題になっているJR西日本で考えることは、各メディアに任せよう。今日の日記では主にJR西日本以外のことについてこれらの3点について考えたい。1の「利益重視」について。「民間会社は利益重視で何が悪い?」という意見もあるだろう。実際にそういう意見も見かける。だがそれは安全を考えた上でのことだ。安全対策なしに利益を上げるのは単なるチキンレースでしかない。物事には大事なものがいくつもある。鉄道会社には「安全」と「利益」がどちらも必要だ。しかし優先順位からいえば、「利益」が「安全」に優先されることはない。しかも両者の重要性は大きい。JR西日本は脱線事故で何を失ったか?多くの人の信用、そして帰らない多くの命。経営としてもおそらく巨額の賠償が今後は必要になる。考えてみたら雪印や三菱自動車など、安全面で対策を取らずに大打撃を受けた会社は多い。2の「モノが言えない」について。会社を改善したいと思っても、言いたいことがいえないことはJR西日本に限らず実際よくあることだ。実は多くの有益な提案が闇から闇に葬られているのかもしれない。JR西日本では、事故列車に乗っていた運転士二人が現場から離れてしまったことに、JR西日本の実情が見える。その後のボーリングでも、「やめよう」と中止を申し出る人がいなかったと聞くが、かなり硬直化した内部だったことがわかる。「言いたいことが言えない」ということを広く考えるとこれは今、日本では大きな問題だ。雪印の不正を訴えた西宮冷蔵や警察内部での裏金を暴露した人が、その後どうなったかを考えれば今の日本全体が「JR西日本化」しているといっても過言ではあるまい。警察の裏金雪印告発の西宮冷蔵、神戸税関から弾圧告発者は損だ!愛媛県警で報復人事? 告発者が損をするとは、現代社会は恐ろしい世の中である。3の「セクショナリズム」について。私は縦割り行政などを考えるとき、どうしても黒澤映画「生きる」を思い出す。(映画を観た人はその意味が容易に理解できるだろう)さらにもっと広く考える。列車脱線事故でも多くの人は「もし自分だったら」ということを考えたのではないか?確かに事故は遠くで起こったことかもしれない。亡くなったりケガをしたのは自分とは関係のない人だったかもしれない。しかし「もし自分の家族が犠牲になったら」ということを考える時、私はこの事故に「部外者」という人はいないのではないかと考える。自分に関係ない人が犠牲者になったオウムの事件を、私は「部外者だから批判しない」とは考えない。北朝鮮による拉致事件を、「拉致されたのは自分の関係ない人だから関係ない」とも考えない。私の考えは単純明快だ。だからこそ事故列車に乗っていて逃亡した運転士二人は批判されて当然だし、ボーリングをしていた職員は批判される。この人たちも脱線事故から自分を見て「関係ない」と考えていたのだろう。追記今回の列車脱線事故原因として、スピード超過が叫ばれている。これはもう動かせない事実なのだろう。しかし、強い横風を受けたわけでもなく、障害物があったわけでもないとしたら、列車そのものか線路の敷設方法に問題があった可能性がある。列車を内側に傾けるカントは適切だったのか?一部報道されているように列車の異常振動は脱線と因果関係があったのか?今後同じ事故が起こらないように、すべての原因を疑ってみる必要があるだろう。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。今のところメッセージは必ず読んでいます。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。