「ハード・タイム」
サラ・パレツキーの「ハード・タイム」を読み終えました。ヴィグもとうとう40代突入。600ページを超す長編で、前半おとなしい展開だったので、年取ったな、今回はアクションなし?と思ったら、後半になってタイトルどおり超ハードな展開に。期待に応えてくれました。近頃じゃ探偵家業もケータイやネットを駆使するのが当たり前らしく、出来る女は時代のツールを颯爽と使いこなしていました。でも、「調べてみなきゃ」といって、ネットの調査会社にお金払って待ってるだけで画面に信用情報が一目瞭然、っていうのは、読んでる方としては面白味にかける気が。けど、ま、実際こーゆーツールで回ってる世の中なのに、小説の中でだけ、ハードボイルドだどってわけにもいかないんだな。そこらへんも考えて、今の新しい無機質なところと、古臭い部分、不潔さや理不尽さやどろどろしたものを、両方描くことで、ハードボイルドな部分がより鮮明になっているように感じました。実際は、こんな頭がよくて男と戦っても負けない体力と運動神経があって、そのパワーを私利私欲より、この小説でいうところの「よきサマリア人」的方向に使おうという人は、まずいないでしょう。ありえね~かもしれないけど、あったらいいなと想像する世界としては悪くないです。基本的に、主人公ヴィグの一人称で書かれていて、だから会話文だけでなく客観的な描写もヴィグの視点からのものであり、ヴィグの頭の中から生まれたセンスが反映されたものになっている、という設定になっています。ちょっと分かりづらいのが、彼女はわざと事実と反することをサラッと言って皮肉ったりジョークにしたりするのですが、それが実際の出来事なのかジョークなのかが、しっかり話の内容を把握していないと混乱しそうになります。でも、私自身こういう皮肉っぽい言い方をして周りが付いてきてくれず孤独感を強めたりするたちなので、こーゆー言い方する人分かるなあと思いました。読みながら、結局人は何のためにはたらいたり苦労したりするやろ、とつい考えてしまいました。特に最近は、世の中すべてカネカネという価値観であふれています。損得をお金の価値で計算して行動しなければバカだ、みたいな風潮ですが、その考えを追求して、満ち足りることは出来るのだろうか。この小説では、主人公は熟睡できない日々で終わるのですが、心底満ち足りて眠れるようになるには、どうすればいいのだろう。ひとりの人間に出来ることなんてたかが知れてて、安らかな気持ちになるには妥協しかない、というのも、ハッピーエンドよりリアルさがあります。まあ私にはもちろんヴィグのような頭脳も体力もサマリア人的良心もないので、今度チャンスがあれば(あるのか?)、もう二度と、知ってしまったものの責任などと誤った道に進んだりせず、ささやかな安泰で満足する所存です。