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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習21 マルクスの『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」を学習しています。 私などが弁証法の言葉をに、最初に知ったのは、エンゲルス『空想から科学へ』です。その第2章「ドイツ古典哲学」-ヘーゲルの紹介からでした。考え方の特徴の問題として読んでいたと思います。 その後、やはりエンゲルスの『フォイエルバッハ論』も読みました。これは、科学的社会主義の唯物弁証法とは何か、どのようにつくりだされてのか、そんな問題意識で読んでいました。 また、レーニンですが、『哲学ノート』をみると、世界大戦のさなかにあって、ヘーゲル『論理学』から弁証法を学びとろうとして、懸命に学習していたという記録が残されています。 「弁証法」といえば、辞典などでは、1.対立物の闘争、2.量から質への転化、3.否定の否定、この3つの法則があると解説されています。 弁証法というと、哲学の教養や知識ということもありますが、実際の自然や社会、人間の思考などの世界の法則性でもあるとの洞察でもあり、ものごとに対処する方法だとの指摘もあります。 そうしたことから、いったい「その弁証法とは何んなのか?」、問題とするところで、 やはり、意識的に問題にしていったのは、近代のドイツ古典哲学のヘーゲルやマルクスからですね。 では、ヘーゲルはいつから弁証法を問題にし出したのか。 前回、『精神現象学』序論から、その一節を紹介しましたが、今回も別の一節を紹介しましょう。 「哲学に求められている肝心なことは、命題の弁証法的運動を叙述すること。命題は真なるものが何であるかを表現すること。真なるものは、本質的に主体である。主体である以上、それは、弁証法的な運動、すなわち自分自身を産み出し、展開し、そして自分に帰ってゆく過程にほかならない。』(『世界の名著』中央公論 山本信訳 P141) たしかに、ヘーゲルは弁証法を意識的にとらえ、表現しようとしています。ヘーゲルは1831年にコレラにより62歳で亡くなりました。その思想は、社会に大きな関心と影響を与えながらも、その弁証法とは何かの基本問題は、当の本人以外には明確な意識的認識にならなかった。青年ヘーゲル派の人たちは問題意識すらならなくて、またフォイエルバッハにおいても明確にしきれなかった。
マルクスのヘーゲル弁証法に対する評価ですが。 「ヘーゲル現象学と、その最終成果は、運動させ産出する原理としての否定性の弁証法であり、その偉大なる内容は・・・」(『経済学哲学手稿』国民文庫 藤野渉訳 P216) その弁証法の偉大な成果とは何なのか、それを評価して、引き継ぎ、生かそうとしています。 ヘーゲル弁証法というは、すばらしい洞察です。「弁証法的な運動、すなわち自分自身を産み出し、展開し、そして自分に帰ってゆく過程にほかならない」など、基本洞察をもっているんです。 が、しかし、同時にその著作を読まれた方は分かると思うんですが、なかなか大変です、わかりにくい。そのままでは玉石混交で、使えるものではない。このヘーゲル弁証法のどこが問題なのか、これを批判する課題があり、このことをマルクスやエンゲルスが努力していったわけですね。 こうした問題の輪郭については、今日では天下周知の、常識的な状況だということです。 『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」ですが。 どの様な組みたてになっているか。 1、最初に、フォイエルバッハのヘーゲル哲学批判の功績を指摘するとともに、
〇ヘーゲル弁証法の成果を紹介しています。 「ヘーゲル現象学と、その最終成果は、運動させ産出する原理としての否定性の弁証法であり、その偉大なる内容は・・・」(P216)
本論の六点目「自己意識は外化をとりもどす。すなわち他在そのものの中で己のもとにある」
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