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マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」31まとめ 前々回からマルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」のまとめに入っています。 『経済学哲学手稿』ですが、マルクスは1843年10月末にドイツからパリに移ってから、1845年2月3日にパリを追放されブリュッセルまでの、短い期間の成果です。出版契約をむすんだその数日後に追放されたんで、草稿はそのまましまわれていたんです。 この『経済学哲学手稿』ですが、この時マルクスは26歳の時ですが、哲学、経済学、社会主義、革命史などについて、短期間に集中的な学習がされたことをしめしています。
よく言われる一つに、「マルクスは自らの唯物弁証法について、書くことが出来なかった」があります。 1、その根拠ですが、マルクスがディーツゲンにあてた手紙があります。 「経済学的(『資本論』の)な重荷を首尾よくおろせたら、『弁証法』の本を書くつもりです。弁証法の正しい諸法則はすでにヘーゲルにちゃんとでています、ただし神秘的な形で。肝心なのは、この形態をはぎ取ることです」(1868年5月9日付 全集32巻) マルクスは『資本論』第二版のあと書きなどで、その要点を指摘してますが、弁証法についての本は書くことが出来ずに亡くなってしまった。そのかぎりでは、当たっているわけです。 エンゲルスは、唯物弁証法を紹介したいとのマルクスの遺志も知っていたわけですが、その遺稿集の中に『1844年の経済学哲学手稿』を見つけたんですね。1886年に『フォイエルバッハ論』を新聞に発表した。これは、草稿のそのままの文章ではわかりにくいので、エンゲルスが独自の努力も込めて、どのように唯物弁証法、唯物論的歴史観がつくられたのか、解明したものでした。
私などが『経済学哲学手稿』を手にしたのは、戦後の民主主義社会の自由な中で、1969年の大月書店『国民文庫』藤野渉訳第11刷でしたが、それは1963年第1刷で刊行されていた。
ここでの中心問題は、『資本論』第二版のあと書きで、提起されてます。 「弁証法がヘーゲルの手のなかでこうむっている神秘化は、かれが弁証法の一般的な運動形態をはじめて意識的な仕方で叙述したということを決してさまたげるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては逆立している。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならない。」 こうして、マルクスはここでも、その批判の仕方について、アドバイスしています。 それが、私などの中心問題です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年11月10日 12時48分26秒
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