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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習22
途中から目にする方は、これを見て『なんじゃ、こりゃぁ』との気もするでしょう。 一、あらためて、探究の流れの確認 「それの他在としての他在において自身のもとにある」、突然にこんな言葉を聞かされては。誰しも困惑せざるを得ないと思います。いったい何を言っているのか、だいたい何が問題なのか、まずはこれまでの流れを大まかに確認します。
「ヘーゲルの『精神現象学』とその哲学の最終成果は弁証法であり、それは『動かし、産み出す原理としての否定の弁証法だ」として、その内容のいくつかを紹介しています。
〇「哲学に求められている肝心なことは、命題の弁証法的運動を叙述すること。命題は真なるものが何であるかを表現すること。真なるものは、本質的に主体である。主体である以上、それは弁証法的な運動、すなわち自分自身を産み出し、展開し、そして自分に帰っていく過程にほかならない。」(『世界の名著』「ヘーゲル」中央公論社 山本信訳 P141) 〇「学問においては、充実した内容の魂としてみずから運動していく。そのさい、存在者がどう運動していくかというと、それは、一方では、みずから自分に対して他であるものとなり、他者に内在するものとなる。他方では、この展開された自分の現存在を、自分のうちへとりもどす。すなわち、一方の運動においては、否定性は、区別し、現存在を定立するはたらきである。他方の、自分に帰る運動においては、否定性は、規定された単純性が生ずるということである。」( 同 P130)
ヘーゲルは、その後1831年に亡くなるまで、この弁証法を世界のさまざまな分野において追跡し、まとめて、その著作や講義で述べているんですね。 この間の学習に付き合っていただいた方は、そうした課題がわかっていただけると思いますが。 マルクスは、とくに二つの点を丁寧に分析しています。 1つは、第2点目の「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」の点です。 この二点において、マルクスはヘーゲルの弁証法が持っている問題点を吟味しているわけです。
それが、「あらかじめ、言っておく」(第16文節(P496))と指摘してくれている箇所です。 マルクスは、これらをヒントにして、とかく困難を前して投げ出しがちな私たちに対し、どんな苦労をしてでもヘーゲルを読み解くように、そうした努力をするだけの内容があるよ、「頑張れ」といってくれているわけです。
「それの他在としての他在において自身のものとなる」は、P502の第33文節から、P506の第46文節までの全部で14文節あります。やはりこれを読み解くのは簡単なものではありません。
第34文節 「対象性の揚棄」は、ヘーゲルにとっては疎外された対象の特定の各性質だけでなく、対象ということそのものが妨げ(癪[しゃく])になっている。しかしその空しさは積極的な意義をもつ。 第35文節 意識、あるいは知るということ。 第36文節 ヘーゲルの言っている「他在のうちで自己のものになる」を確認する。 第37文節 マルクスの結論的総評-「こうした説明のうちに、あらゆる幻想がいっしょくたになっている」 第38文節 第一に「他在は自身のもとにいる」のなかには、フォイエルバッハが「思考の力にはあまることになる」と指摘した点が妥当している。 第39文節 第二に人間の外化したものとしての精神世界を揚棄したにもかかわらず、それをもとのままで人間の真のあり方として復興してしまう。これはニセの肯定主義であり、見せかけだけの批判だ。フォイエルバッハの「否定の否定にへの批判」は当たっている。だけど、それは狭い。 第40文節 原理のウソを宗教論において見る。 第43文節 ヘーゲルは精神(学問、哲学)だけを動的にみている。そのもととなっている現実は隠されている。自己を本質として、諸学説をその現れとみている。 第44文節 論理学と現象学の関係。論理の本質のあらわれとして、現象が寿限無寿限無とつづく。 第45文節 「止揚」の内容は、対象をそのままにしておいて、ただその解釈を変えるという解釈論。 第46文節 ヘーゲルの止揚する現存在は、現実そのものではなくて、この学説を問題にしているだけ。学問上では批判的な解釈をのべているが、しかし現実の事態はあるとおりにみとめている。 この学習から私などが何をつかむか問われます。これからの楽しみです。 これは、唯物弁証法とは、どのような中身で、どのように確立したのか。 1、ヘーゲルは確かに弁証法を発見し、まとめたんです。しかし、まだそのままでは原鉱石のなかの金ですね。その解析をはじめてマルクスがしてくれた。今日では、すでにヘーゲルの業績とその批判というのは、ある程度は常識的になってきていると思います。がしかし、それでも一方では、まともな検討の対象とはしない多くの不毛な風潮があると思います。同時に他方では、「そんなことは、当たり前なこと」との当たり前の前提のように当然視する態度もあるかと思います。肝心なのは、真摯な努力がどれだけなされているのかです。 そうした中で私は思うんです。研究者の個々人の探究というのは、良心的な人は研究されていると思いますよ。ある程度は常識的なこととされてます。しかし、私などの目には、その議論も関連する刊行物もほどど届いてないんです。議論がなければ、世間に周知のものとはならないじゃないか、なにをなまけているのか、と。戦後80年がたちますが、私などが見るのにマルクスの『経済学哲学手稿』「ヘーゲル哲学批判」に対する、しっかりとした丁寧な検討というのは、ほとんど見当たらないんですね。この弁証法を理解するうえで、科学的社会主義の哲学を理解する大事な材料であるにもかかわらず、世間はいったい何をしてるんだ、と。馬耳東風の状態をぼやいていたんです。 しかし、ボヤくことをやめました。馬耳東風じゃない、討議の場がないだけで、心ある人たちはその世界の中で努力しようとしている、そのことを感じるようになったからです。他者に対しなげいているんじゃなくて、これは自らの問題であること。「努力をオープンにしつつ、さらに進め」、との気持ちにようやくにして悟りを得たということです。
確かにマルクスの生前には、「ヘーゲル法哲学批判」も「経済学哲学手稿」も「ドイツイデォロギー」も刊行されずに、草稿のままに人知れずにしまわれていたんです。その時点では妥当です。しかし、その後1932年には旧『ME全集』として、その中にはこれらの作品が刊行されているじゃないですか。日本でも戦前から先人の弾圧下での努力した話も聞きます。ましてや、戦後民主主義の下では、日本でも翻訳され刊行されているじゃないですか。民主的な学習・討議も可能じゃないですか。
そのなかで、「マルクスは、弁証法について、まとまった著作を残さなかった」なんてことが、とっくに死語になっていることが、今でも時たま、聞かれるわけですから。 宮本百合子の『歌声よ おこれ』ですが、これは、やはり今でも求められていると思います。
マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」も、おわりまであと少しです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年09月07日 21時55分45秒
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