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2024年09月06日
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​マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習22​


今回は、ヘーゲル『精神現象学』の最終章「絶対知」の一節から、
「それの他在としての他在において自身のものとなる」に対するマルクスの検討です。
『ME全集』第40巻の、P502の第33文節からP506の第46文節までの14文節が対象です。

途中から目にする方は、これを見て『なんじゃ、こりゃぁ』との気もするでしょう。
私なども、いろいろ取り込みがあって、この間に中断していたので同じです。あらためての「まき直し」で、問題とその所在を確認するために、すでに3回のブログ発信をしているところです。





​一、あらためて、探究の流れの確認​

「それの他在としての他在において自身のもとにある」、突然にこんな言葉を聞かされては。誰しも困惑せざるを得ないと思います。いったい何を言っているのか、だいたい何が問題なのか、まずはこれまでの流れを大まかに確認します。


1、ヘーゲルは近代に、哲学者として初めて弁証法を提起した。
マルクスの『経済学哲学手稿』は、まずこの点の業績を評価しています。第14文節(P496)

「ヘーゲルの『精神現象学』とその哲学の最終成果は弁証法であり、それは『動かし、産み出す原理としての否定の弁証法だ」として、その内容のいくつかを紹介しています。


ではヘーゲル自身は、その弁証法をどの様に述べているか。『精神現象学』の「序論」から。

〇「哲学に求められている肝心なことは、命題の弁証法的運動を叙述すること。命題は真なるものが何であるかを表現すること。真なるものは、本質的に主体である。主体である以上、それは弁証法的な運動、すなわち自分自身を産み出し、展開し、そして自分に帰っていく過程にほかならない。」(『世界の名著』「ヘーゲル」中央公論社 山本信訳 P141)

〇「学問においては、充実した内容の魂としてみずから運動していく。そのさい、存在者がどう運動していくかというと、それは、一方では、みずから自分に対して他であるものとなり、他者に内在するものとなる。他方では、この展開された自分の現存在を、自分のうちへとりもどす。すなわち、一方の運動においては、否定性は、区別し、現存在を定立するはたらきである。他方の、自分に帰る運動においては、否定性は、規定された単純性が生ずるということである。」( 同 P130)


はじめにマルクスが指摘したヘーゲルの弁証法というのは、こうした点かと思います。
少なくとも、ヘーゲルは、この最初の著作『精神現象学』(1807年)において、弁証法を意識的に紹介しようとしているんです。そのことは確認できると思います。

ヘーゲルは、その後1831年に亡くなるまで、この弁証法を世界のさまざまな分野において追跡し、まとめて、その著作や講義で述べているんですね。

2、しかし、そのヘーゲルの弁証法には、偉大な成果の面とともに、大きな問題があった。
マルクスの『経済学哲学手稿』ですが、これは、この両面をはじめて明確に提起したものです。

この間の学習に付き合っていただいた方は、そうした課題がわかっていただけると思いますが。
ヘーゲルの弁証法には「一面性と限界」があった。その点の析出が課題です。

ヘーゲルはその弁証法を「意識の外化と、その対象性の克服」だということで、『精神現象学』の「絶対知」の冒頭で、8点にわたって述べています。
それに対してマルクスが検討しているわけです。

マルクスは、とくに二つの点を丁寧に分析しています。

1つは、第2点目の「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」の点です。
これはこれまでの学習でみてきたところです。
2つは、第6点目の「この外在化と対象性を同時に揚棄して自身のうちへ取りもどしており、したがって、それの他在としての他在において自身のもとにいる」。
これが今回学習しようとしている点です。

この二点において、マルクスはヘーゲルの弁証法が持っている問題点を吟味しているわけです。


そうしたことが流れであり課題であるとは分かったとしても、
「なんでそんなことが問題なの? 」と戸惑うだろう私などに対して、
マルクスはこれまでに、そのことの中心的な意味・内容を、アドバイスしてくれてました。

それが、「あらかじめ、言っておく」(第16文節(P496))と指摘してくれている箇所です。
さらに、そのおもな「要点の紹介する」(第17文節から21文節(P497))との箇所です。

​マルクスは、これらをヒントにして、とかく困難を前して投げ出しがちな私たちに対し、どんな苦労をしてでもヘーゲルを読み解くように、そうした努力をするだけの内容があるよ、「頑張れ」といってくれているわけです。


二、大まかに、その論点をさぐる

「それの他在としての他在において自身のものとなる」は、P502の第33文節から、P506の第46文節までの全部で14文節あります。やはりこれを読み解くのは簡単なものではありません。
それで、マルクスの主張をつかむために、各文節でどんなことを言っているか、私なりに各節の内容を短く整理してみました。読み解いていく上で、なにか刺激になればさいわいです。


第33文節(P502) 「絶対知」冒頭でのヘーゲルの8点の指摘について、その第三、四、五、六点についての主張を、それぞれ確認しています。

第34文節 「対象性の揚棄」は、ヘーゲルにとっては疎外された対象の特定の各性質だけでなく、対象ということそのものが妨げ(癪[しゃく])になっている。しかしその空しさは積極的な意義をもつ。

第35文節 意識、あるいは知るということ。

第36文節 ヘーゲルの言っている「他在のうちで自己のものになる」を確認する。

第37文節 マルクスの結論的総評-「こうした説明のうちに、あらゆる幻想がいっしょくたになっている」

第38文節 第一に「他在は自身のもとにいる」のなかには、フォイエルバッハが「思考の力にはあまることになる」と指摘した点が妥当している。

第39文節 第二に人間の外化したものとしての精神世界を揚棄したにもかかわらず、それをもとのままで人間の真のあり方として復興してしまう。これはニセの肯定主義であり、見せかけだけの批判だ。フォイエルバッハの「否定の否定にへの批判」は当たっている。だけど、それは狭い。
ヘーゲルの宗教・国家に対して順応するのは、この原理そのものに問題がある。

第40文節 原理のウソを宗教論において見る。

第41文節 「したがって」、ヘーゲルの否定の否定に対する考え方の問題。
否定が肯定と結ばれている。そこには「止揚」ということが独特の役割をはたしている。 

第42文節 『法の哲学』では、論理の展開で説明されるが、各々は人間の各契機である。各契機は人間のあり方としてそれぞれ運動しているが、それにより各々の運動が隠される。

第43文節 ヘーゲルは精神(学問、哲学)だけを動的にみている。そのもととなっている現実は隠されている。自己を本質として、諸学説をその現れとみている。

第44文節 論理学と現象学の関係。論理の本質のあらわれとして、現象が寿限無寿限無とつづく。

第45文節 「止揚」の内容は、対象をそのままにしておいて、ただその解釈を変えるという解釈論。

第46文節 ヘーゲルの止揚する現存在は、現実そのものではなくて、この学説を問題にしているだけ。学問上では批判的な解釈をのべているが、しかし現実の事態はあるとおりにみとめている。

以上が、マルクスのヘーゲル哲学の、弁証法の「一面性と制約」にたいする分析です。
以前に紹介された「あらかじめ」「要点」のアドバイスですが、それがどのようなヘーゲルを検討する中から引き出されたものなのか。ここでは直に、生にヘーゲルの検討がなされているということです。

この学習から私などが何をつかむか問われます。これからの楽しみです。


しかし、次のことは確かです
マルクスが、あらかじめアドバイスとして述べていたことですが、
これは、ヘーゲルの「絶対知」の検討から、必然的に引きだされてくる事柄だということです。
この検討から引きだされた評価であり、結論であることが見えてきます。
以前に読んだときは、いったい何をいっているやら・・・モヤモヤしていた面もあったんですが、
この検討作業を調べることによって、何を言っているのか明確になります。

これは、唯物弁証法とは、どのような中身で、どのように確立したのか。
エンゲルスが『フォイエルバッハ論』において説明していることですが、
これはその元になっているものですから、この箇所を読み解くことで、より明確になります。
私などには、唯物弁証法を理解する上で、これは学習の一つの大事な道だと思います。

​三、この検討に対し、私などの感じた点ですが​

1、ヘーゲルは確かに弁証法を発見し、まとめたんです。しかし、まだそのままでは原鉱石のなかの金ですね。その解析をはじめてマルクスがしてくれた。今日では、すでにヘーゲルの業績とその批判というのは、ある程度は常識的になってきていると思います。がしかし、それでも一方では、まともな検討の対象とはしない多くの不毛な風潮があると思います。同時に他方では、「そんなことは、当たり前なこと」との当たり前の前提のように当然視する態度もあるかと思います。肝心なのは、真摯な努力がどれだけなされているのかです。

そうした中で私は思うんです。研究者の個々人の探究というのは、良心的な人は研究されていると思いますよ。ある程度は常識的なこととされてます。しかし、私などの目には、その議論も関連する刊行物もほどど届いてないんです。議論がなければ、世間に周知のものとはならないじゃないか、なにをなまけているのか、と。戦後80年がたちますが、私などが見るのにマルクスの『経済学哲学手稿』「ヘーゲル哲学批判」に対する、しっかりとした丁寧な検討というのは、ほとんど見当たらないんですね。この弁証法を理解するうえで、科学的社会主義の哲学を理解する大事な材料であるにもかかわらず、世間はいったい何をしてるんだ、と。馬耳東風の状態をぼやいていたんです。

しかし、ボヤくことをやめました。馬耳東風じゃない、討議の場がないだけで、心ある人たちはその世界の中で努力しようとしている、そのことを感じるようになったからです。他者に対しなげいているんじゃなくて、これは自らの問題であること。「努力をオープンにしつつ、さらに進め」、との気持ちにようやくにして悟りを得たということです。


2、しかしまわりを見ていると、最近でも「マルクスは、弁証法について、まとまった著作を残さなかった」などの意見が見られます。
これは、マルクスの書簡にある「(『資本論』に)時間を取られて、まとめることが出来ないんだ」という言葉から来ていると思いますが。

確かにマルクスの生前には、「ヘーゲル法哲学批判」も「経済学哲学手稿」も「ドイツイデォロギー」も刊行されずに、草稿のままに人知れずにしまわれていたんです。その時点では妥当です。しかし、その後1932年には旧『ME全集』として、その中にはこれらの作品が刊行されているじゃないですか。日本でも戦前から先人の弾圧下での努力した話も聞きます。ましてや、戦後民主主義の下では、日本でも翻訳され刊行されているじゃないですか。民主的な学習・討議も可能じゃないですか。
それなのに、私などには、今、学習の材料が、ほとんどない状況です。


今日、『経済学哲学手稿』は、翻訳されて刊行されているんです。

そのなかで、「マルクスは、弁証法について、まとまった著作を残さなかった」なんてことが、とっくに死語になっていることが、今でも時たま、聞かれるわけですから。
これは討議が不足していることをしめしているとおもいませんか。

ですから、このことは言えると思うんです。
いくら個人が研究していたとしても、またそれが本になって出たからと言っても、討議がなければ、人知れず埋もれていく。それがみんなの討議やさらなる研究発表として、共同の努力が尽くされなければ、豊かなものにならないし、私などの一般人の目にまではほとんど届かないんです。活発に議論が尽くされてこそ、全体のものとなり、豊かになるんだと思います。やはり、それが足りないと思います。

宮本百合子の『歌声よ おこれ』ですが、これは、やはり今でも求められていると思います。
民主主義を徹底する課題をもつ日本です。民主主義を真に確立するためには、民主主義の中身をつくりだすこと、それに反するものとはしっかりとたたかうこと、戦前の亡霊が自民党政治に幅を利かせています。こんなことをまかり通らせていいんですか、犠牲者が報われると思いますか。これで歴史を前にすすめると思いますか。私たちの前には、この課題が厳然としてある、ということです。

だいたい、活発な議論がなければ、せっかくの宝があったとしても、持ち腐れになるじゃないですか。
レーニンの『哲学ノート』をみると、あの困難が山積していた世界大戦のさなかに、弁証法をつかむために、ヘーゲルの『大論理学』をはじめ、諸著作を読んでいた。それくらいの努力を、今日の民主主義的な条件下の日本にあって、自由はあるんです。しかしその自由を生かして、そうした努力を形にするような人は、誰れか出て来ないんですかね。私などはそうした努力がはやく出てくるのを楽しみにしているんですが。


今回、悟ったつもりが、さらなるぼやきとなりました、ここまでです。

マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」も、おわりまであと少しです。








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Last updated  2024年09月07日 21時55分45秒
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