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2024年09月09日
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​マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習23​

前回・第22回では、ヘーゲルの「それの他在としての他在において自身のものとなる」に対するマルクスの批評ですが、全集第40巻のP502の第33文節からP506の第46文節ですが、そこでのマルクスの論点を大まかに紹介しました。

今回は、そのマルクスの論点を、私なりに検討してみます。

簡単に言えば、ヘーゲルの弁証法-「自分自身をうみだし、展開し、そして自分に帰っていく過程」ということ。「対象性のはく奪」ということですが。



ヘーゲルの『精神現象学』の「絶対知」での「意識の対象性の克服」ですが、

「自己意識の外化が物性を措定する」(第二項)、
「それの他在そのもののなかで、おのれのもとにある」(第六項)、ですが。


マルクスは、ここの言葉の中にヘーゲル弁証法の「一面性と限界」を見てとり、
『この論述のなかに思弁のあらゆる幻想をひとまとめに持っている』と指摘しています。

それはどういうことか、これが問題です。


「それの他在そのもののなかで、おのれのもとにある」

全集第40巻のP502の第33文節

はじめの部分は、三項から六項までのヘーゲルの主張の確認です。

その上で、
38、「それの他在そのもののなかで、おのれのもとにある」(第六項)ですが。

マルクスは、このヘーゲルの言葉の中にある問題をさぐります。
ヘーゲルは、意識は直接にその他者(感性、現実、生)であるといっています。それは「自己意識の外化が物性を措定する」(第二項)との認識からして、当然でもありますが。

これが問題の第一です。

フォイエルバッハはこの点について、
「ヘーゲルは思考によって力にあまる仕事をする思想家である」(『将来の哲学の根本命題』第30節)
と指摘しています。

これは唯物論の基本的立場ですね。マルクスもこの立場にたってます。
しかしまだこの時点の段階では、唯物論と観念論の違いというのは、打ち出されたばかりです。その基本的な立場の違いが洞察されたところで、問題になりだした初めの段階ですね。

39、第二にマルクスは、この考え方の中にあるニセの批判、現状を肯定していることを問題にします。
それは、どういうことか。

ヘーゲルは、人間にとって精神世界は、人間を揚棄したもの、否定したもの、疎外したもの、外在化したものとなどと、とらえていました。ところが、その人間にとって、産み出された第二義的であるはずのものが、ヘーゲルにあっては同時に、そのままの姿において承認してしまい、それが人間のあり方だとの意味になっている。

「止揚」「揚棄」「アウフヘーベン」という意味は、高める、保存する、あらたな本質を得る、といった意味があるはずじゃないですか。ところが、前にすすむはずのところで、もとの古いすがたを肯定してしまうヘーゲル。これじゃぁ、肝腎の宝がなくなっちゃうじゃないか。これがマルクスです。

この点について、ですが、やはりフォイエルバッハが指摘しています。

「近世哲学の、汎神論の矛盾、それは神学の立場での神学の否定である。しかしその否定が再び神学であるとの矛盾。この矛盾が、とくにヘーゲル哲学の特色をなしている。」

「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局、ただ神学を哲学によって否定し、それから再び哲学を神学によって否定することである。最初にはすべてがひっくりかえされるが、それから再びすべてがもとの場所に置かれる。」(『将来の哲学の根本命題』第21節、P43-46)


マルクスは、このフォイエルバッハによるヘーゲル弁証法の批判ですが、「それはあたっているよ」と評価しています。ただし、「しかし、これはもっと一般的に理解すべきである」と指摘(批判)しています。
森羅万象にとっての一般的な原理が、ヘーゲルの「否定の否定」にはある。

たとへば、理性は非理性としての非理性のもとでおのがもとにある、となるんだから。ここには、宗教や国家でもいえるし、ヘーゲルの後にみられる順応的な態度についても、その根底的な原因をなす考え方の基本がここにある、とマルクスは指摘しています。当時、26歳のマルクスです。


​ヘーゲルの「否定の否定」に対するマルクス分析​

41、「否定の否定」の理解に関する問題です。
「揚棄」(アウフヘーベン)ということは、本来なら、見かけ上のものを否定して、本当のものをつかむことじゃないですか。本物をつかんだら、見かけ上のものは否定されるじゃないですか。ところがヘーゲルによると、その肝心な本質をとらえたあとで、以前の見かけ上のものが、そのままもの形を確めてしまう、ここに原理的な問題があるとの点です。

あるいは、人間と概念のとらえ方にも問題をきたすという。
ある人間は見かけ上のものであるからして、それ仮象の姿としては否定される。真の人間というのは、その人から独立にある、本質的なものというものがあり、人はそのあらわれとなる。その人から独立した本質(概念)なるものが、主体へと転化することらよりその人が人となる、といったことをヘーゲルは言っているようです。

そうなると、仮象と本質が、否定と肯定が、「止揚」という言葉で結びつけられちゃう、こうという問題をもっていると。
実際、ヘーゲルの「止揚」の使い方には、こうした彼の独特の役割を果たさせている場合が多々あると。

42、このことを、後年の『法の哲学』にみています。
私権が道徳に、道徳が家族に、家族が市民社会に、市民社会が国家に、国家が世界史に、と。
次々に止揚により、世界の場が展開していく。
しかし、実際には、それぞれは人間の諸契機として存在しつづけている。人間の現存在の諸契機として、相互に関連しつつ、存在している。そして、それぞれの領域は、それぞれのなかで、歴史的な運動をしている。
こうしたヘーゲルの展開の仕方では、それぞれの領域には実際の関連や運動や歴史があるわけですが、それらが隠されてしまう。それ自身の持つ運動が見えなくなる、そうした問題が指摘されてます。

43、さらにマルクスの指摘ですが、ヘーゲルにとって外在は自己意識の外化ですから、意識の問題としてしかとらえない。彼がとらえ批判しているのは、あくまで人間の意識としての学説、諸々の学説にたいしての哲学的な批判ということになる。

マルクスはヘーゲル対する指摘として、次のようなことも紹介しています。

「理論を問題とするあり方のなかでは、それらのものの実際の運動する本質は隠されている。それは思考するのなかで、哲学の思索なかではじめて現れ、開示されるのである。」

「一部は私自身のあり方の内部で、疎遠なあり方において確認する。一部はそれらそのものの特有な本源的な姿において私はそれらを確認する。というのは、それらは私には、それらのもの自身の真のあり方の、すなわち私の哲学的あり方にとっては、見かけだけの他在というのは、比喩として、感性的外被のもとに隠された姿として見ているからである。」

思想家としてのヘーゲルですが、彼は現実を具体的にとらえようとしてますが、それはあくまで現実ということの思想・哲学を問題にしているということなんですね。


私などは、ヘーゲルとマルクスが何を言っているのか、理解に苦しみます。しかし、何を言っているのか、何が問題なのか、それをとどうしても追跡するじゃないですか。それに付き合うじゃないですか。
その試行錯誤しての詮索した結果ですが、
なんとも、客観的な観念論というのは、いとも普通人にとって単純なことがらを、じつに厄介なとらえ方をするものだと、あらためて感じさせられるし、マルクスですが、彼はその考え方をじつに丹念に追跡しているものだと、あらためて感じさせられます。

44、ここでは、同じ問題を、『論理学』と『精神現象学』で指摘しています。

​同じ問題が、形を変えてとらえていることを確認します。

ということで、ようやくにして問題点の結論です

45,46、ヘーゲルが問題にしているのは、存在に対して、その思考であり、思想です。
直接的な感性を、理性や思考に高めることをもって、ヘーゲルは現実を「止揚」したものと考える。​

マルクスの評価です。

「この思考の止揚は、その対象を現実のなかでそのままにしておくにもかかわらず、これを現実に克服したと信じている。そしてこの直接的な感性な対象をもって、思考にとっては自己意識の検証と見なしている」

それは、ヘーゲルが、思想を問題にしているだけだからです。現実はそのままにしておいて、ただ理解の仕方を、解釈を変えているだけなんですね。そのことをマルクスはとらえた。

従って、そこからは自ずから、次の言葉が浮かんでくるでしょう。

「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである」

これは、1845年4月にマルクスが手帳に書いたメモです。
内容からしても、書かれたころの時からしても、重なってきます。


以上をもって、ヘーゲル哲学、弁証法の「一面性と弱点」についての学習とします。


次は、「ヘーゲル弁証法批判」の最後のテーマです。

「ヘーゲル弁証法の、この疎外した規定の内部での、肯定的な諸契機をとらえる」ことです。






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Last updated  2024年09月09日 18時33分29秒
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