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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習23 前回・第22回では、ヘーゲルの「それの他在としての他在において自身のものとなる」に対するマルクスの批評ですが、全集第40巻のP502の第33文節からP506の第46文節ですが、そこでのマルクスの論点を大まかに紹介しました。 今回は、そのマルクスの論点を、私なりに検討してみます。 簡単に言えば、ヘーゲルの弁証法-「自分自身をうみだし、展開し、そして自分に帰っていく過程」ということ。「対象性のはく奪」ということですが。
「自己意識の外化が物性を措定する」(第二項)、
それはどういうことか、これが問題です。 はじめの部分は、三項から六項までのヘーゲルの主張の確認です。 その上で、 マルクスは、このヘーゲルの言葉の中にある問題をさぐります。 これが問題の第一です。 フォイエルバッハはこの点について、 これは唯物論の基本的立場ですね。マルクスもこの立場にたってます。 ヘーゲルは、人間にとって精神世界は、人間を揚棄したもの、否定したもの、疎外したもの、外在化したものとなどと、とらえていました。ところが、その人間にとって、産み出された第二義的であるはずのものが、ヘーゲルにあっては同時に、そのままの姿において承認してしまい、それが人間のあり方だとの意味になっている。 「止揚」「揚棄」「アウフヘーベン」という意味は、高める、保存する、あらたな本質を得る、といった意味があるはずじゃないですか。ところが、前にすすむはずのところで、もとの古いすがたを肯定してしまうヘーゲル。これじゃぁ、肝腎の宝がなくなっちゃうじゃないか。これがマルクスです。 この点について、ですが、やはりフォイエルバッハが指摘しています。 「近世哲学の、汎神論の矛盾、それは神学の立場での神学の否定である。しかしその否定が再び神学であるとの矛盾。この矛盾が、とくにヘーゲル哲学の特色をなしている。」 「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局、ただ神学を哲学によって否定し、それから再び哲学を神学によって否定することである。最初にはすべてがひっくりかえされるが、それから再びすべてがもとの場所に置かれる。」(『将来の哲学の根本命題』第21節、P43-46)
たとへば、理性は非理性としての非理性のもとでおのがもとにある、となるんだから。ここには、宗教や国家でもいえるし、ヘーゲルの後にみられる順応的な態度についても、その根底的な原因をなす考え方の基本がここにある、とマルクスは指摘しています。当時、26歳のマルクスです。
41、「否定の否定」の理解に関する問題です。 あるいは、人間と概念のとらえ方にも問題をきたすという。 そうなると、仮象と本質が、否定と肯定が、「止揚」という言葉で結びつけられちゃう、こうという問題をもっていると。 マルクスはヘーゲル対する指摘として、次のようなことも紹介しています。 「理論を問題とするあり方のなかでは、それらのものの実際の運動する本質は隠されている。それは思考するのなかで、哲学の思索なかではじめて現れ、開示されるのである。」 「一部は私自身のあり方の内部で、疎遠なあり方において確認する。一部はそれらそのものの特有な本源的な姿において私はそれらを確認する。というのは、それらは私には、それらのもの自身の真のあり方の、すなわち私の哲学的あり方にとっては、見かけだけの他在というのは、比喩として、感性的外被のもとに隠された姿として見ているからである。」 思想家としてのヘーゲルですが、彼は現実を具体的にとらえようとしてますが、それはあくまで現実ということの思想・哲学を問題にしているということなんですね。
同じ問題が、形を変えてとらえていることを確認します。 マルクスの評価です。 「この思考の止揚は、その対象を現実のなかでそのままにしておくにもかかわらず、これを現実に克服したと信じている。そしてこの直接的な感性な対象をもって、思考にとっては自己意識の検証と見なしている」 「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈しただけである。肝要なのは、世界を変えることである」 これは、1845年4月にマルクスが手帳に書いたメモです。
「ヘーゲル弁証法の、この疎外した規定の内部での、肯定的な諸契機をとらえる」ことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年09月09日 18時33分29秒
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