マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習26
『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」も、
残りあと8ページ、11文節となりました。
前回で、「国民文庫版」のP234、第63文節まで来ました。
ここで、その先をさらにすすむべきか、それとも前回の紹介した第56文節-63文節にたいして、私などの感想をコミットしておくべきか、どうするか迷いましたが。
急がば回れ、です。
今回は、前回のP231第56文節からP234第63文節ですが、
そのなかで感じた点を、検討しておくことにしました。
一、最初に、残りの内容について、そのスケッチです
マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」は、残りの8ページですが、
そこには以下の3点があると思います。
1、マルクスの「ヘーゲルの思い」を検討した総括的見解があります。第64文節-66文節です。
2、その根拠をさぐる、『小論理学』の最終章・第244節について。第67節・68節です。
3、最後は、人にとって抽象の世界だけではむなしい。
自然を直観したくなるのは、人の外部性について。第69文節-72の最終文節です。
こうした結論的な問題が、この後のしめくくり部分ですが、最後にあります。
二、前回の第56文節-63文節を理解するヒント
前回のヘーゲルの見解に対するマルクスの評価ですが、何を言いたいのか、わかりましたか。
なかなかそれ読み取ることは、厄介なことだろうと思います。私自身も感じています。
そうした中で、私などには、少なくとも2つのヒントがあると思っています。
1つは、マルクス自身が提供してくれているヒントです。
くりかえしになりますが、
以前にマルクスが難関を越えるための示唆を与えてくれてました。
ア、「国民文庫」P217第20・21文節「ヘーゲルの一面性と限界」について「さしあたり」言っておく、との点です。
イ、同、P217第23文節「現象学の最後の章。主要点はこうだ」と、アドバイスしてくれている点です。
これがマルクスが、ヘーゲル批判を読み解くうえで、与えてくれているヒントです。
2つ目のヒントは、後年においてエンゲルスが提供してくれているアドバイスです。
ア、『反デューリング論』と『空想から科学へ』です。
この著作はマルクスとエンゲルスが協議したうえで書かれたものです。かつては、科学的社会主義の『入門書』の意義をもち、関心者のみなさんすべてにプレゼントしてくれたという、そういう『空想から科学へ』なんです。
イ、もう一つは『フォイエルバッハ論』です。
これはマルクスが亡くなった後に、エンゲルスが科学的社会主義の世界観の確立についてまとめたもの。「この中で私は、私の知るかぎりで現存のもっとも詳細な説明をしておきました」(1890年9月21日付 エンゲルスからブロッホあての手紙)といってます。
三、本題の、第56文節から63文節のマルクスの批判についてです
ただし、前回紹介したヘーゲルの見解に対しての、マルクス『経哲手稿』でのそのもの自体の論評については省略します。ダブりますし、あまりにも長くなりすぎますから。
P231 第57文節 (a)外化したものを自己のなかに取りもどしていく対象的運動。
ここには基本があると思うんです。疎外された自己をとりもどす。人間中心のヒューマニズムということか、ルネッサンス以来の近代の精神をヘーゲルは引き継いでいる、という評価です。
第59文節 ヘーゲルは「それ自身を否定(疎外)することの、肯定的な意味をとらえている。
「ヘーゲルは抽象の内部で、労働を自己産出行為としてとらえている」
これは、以前に予告として、P216第19文節ですが「ヘーゲル現象学と、その最終成果-その偉大なもの」としてマルクスが強調していた点ですが。
ヘーゲルは人間の自己産出を、一つの過程としてとらえている。それは外化・対象化されたものに対して、他方では対象性のはく奪として、外化したものを止揚することとしてとらえていること。ヘーゲルが「労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的なるがゆえに真なる人間を、それは人間自身の労働の成果として理解している」こと、それはマルクスがこの箇所でのヘーゲルの見解を評価していたんですね。
さらに、ここには人間の疎外にとって、ヘーゲルが類的な諸力というものが働いているとの指摘を評価しています。電気釜、自動車、スマホの社会的な、類的な意識と力ということですね。
P233 第60文節 (b)ヘーゲルの転倒性ですが、それによって、マルクスは逆に効用を指摘しています。
第一に転倒性は、ただ形式的な行為として現れる。それは抽象性によるから、と。
これはなにか。以前に第13節でフォイエルバッハの「否定の否定」が、ヘーゲルの主張している点をとらえていないことが指摘されてました。フォイエルバッハの「否定の否定」ということのとらえ方は狭いことを指摘していました。
ここでは、ヘーゲルの「否定の否定」の積極的な意味について、それは歴史の運動にたいして、抽象的、論理学的、思弁的な表現を、基本的な運動の仕方といったことを指摘して言います。
それはフォイエルバッハのように、ある特定の問題(神と哲学)の場合というだけでなく、もっと広く、一般的な基本的な事柄をとらえる見方を与えてくれる洞察なんだと。個別の問題点じゃなくて、大きな基本的な運動の仕方についての、ヘーゲル流の哲学的に表現したものなんだと。
P233第61文節「第二に、とらえ方が形式的かつ抽象的であるために、外化の止揚が外化の確認になる」
以前にヘーゲル弁証法の問題点として、「外化の止揚が外化の確認になる」ということは、「前進のウソ」(P228第46文節)、「原理のウソであり、ごまかしである」ととまで、否定視されていたと思うんです。しかしここではそうではない。むしろそれが積極的な役割を果たしているといっている。
これは、いったいどういうことか。
以前のところあれば、ヘーゲルの「神-人間・哲学-神」の「否定の否定」(第41文節)が問題になりました。「否定」されたはずの現状が、「否定の否定」ということで元のまま肯定されてしまう。これはまやかしの現状肯定主義だと批判していたんです。
ところがここでは、「おのれ自身を目的として自身に落ち着いてくるような、おのれの本質に到達したところの人間の生の表明である」と肯定的に評価されている。
いったいどうしたことか。
両者において、どこが共通しているかというと。
「おのれの本質に到達した人間の生の表明であり、自己確認」、この人間中心のヒューマニズムの生成が、共通して据えられているということですね。これはヘーゲルの近代思想や啓蒙思想にたつ点を、マルクスは評価しているんじゃないでしょうか。その人間自身の、自己の内面的な確信が大きな基礎として大事なんだということ。だけど、同時にここでマルクスの強調している点は、「否定の否定」には新たなものを生み出していくこと。出発点にあった人間が、そのままの姿で肯定されるわけではなくて、試行錯誤はあったとしても、やがては新たな人間に発展していく、自己変革的な存在なんだということですね。
ヘーゲルの『歴史哲学講義』ですが、そこでは「自由の世界史的な発展」との大きな歴史観を提起しています。私は、以前に『ヘーゲル 歴史のなかの弁証法』で紹介しました。しかしそれは講義の記録なんです。推敲されたものではなく十分には書かれていないように思います。材料や研究の不足もあったでしょうし、ヘーゲルの歴史観や方法にも問題があることが指摘されています。同時に思うんですが、なんたってヘーゲルという人はベルリン帝国大学の総長の立場にもあったくらいの人ですから、その立場からして、その発言はかなり配慮されたものであって、そこには自身でも内面的な葛藤があったんじゃないかと、私などは思っています。
第62文節 「ヘーゲルの抽象的な形式としての弁証法において、この運動が真実に人間的な生の運動と見なされる」「しかしその生の運動というのは抽象的なものであり、それは神の過程のあらわれとして、人間とは区別された抽象的に純粋で、絶対的本質があり、その神的な純粋なものが、人間をとおして、みずからを通過させる過程だとみなされる」。
人間とは別に、神のような純粋で絶対的本質があって、人間の思想や行為というのは、その本質の現象形態なんだといってます。これは、客観的な観念論の立場を指摘したものですね。しかしヘーゲルは、少なくとも、俗世間にある神のすべて合理化したり弁明したりしているのものではありません。神にふさわしいような神の絶対的理念といった存在を想定(前提)している。しかし、それは現生のなかからそうした理想が抽出されるのではなくて、はじめにそうした神的な存在があるんだというのがヘーゲルの考え方ですから、そこが逆立ちしているとされる点です。
すくなくともヘーゲルは、現状の歪んだもの(社会や政治や宗教など)を、「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」の命題をもって、なんでも合理化しようとするような立場ではないことだけは確かだと思います。
以上、前回に紹介した『国民文庫』のP231の第56文節から、P233の第63文節までについて、
私などが感じた事柄です。