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みかんの木を育てる-四季の変化

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はなたちばな3385

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2024年09月30日
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​マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習27​


こんな言葉があります。

「マルクスは、ヘーゲルの論理学から、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見をふくむ核心を取りだし、弁証法的方法からその観念論的な外皮を剥ぎ取って、それを思想展開の唯一の正しい形式となりうるような簡明な形につくりあげるという仕事を引き受けることのできた唯一の人であったし、今でもそうである」


これは、1859年にエンゲルスが「カール・マルクス『経済学批判』」の書評(『全集』第13巻)で述べたことです。

今、私などは、うっそうとした森のなかを、あれこれうろうろしてますが、そこで問題となっている核心というのはこれです。




​一、これまでの要約​

ヘーゲルの弁証法ですが、『内容の魂として運動していく。それは一方では、みずから自分に対して他であるものとなり、他者に内在する内容となる。他方では、この展開された自分の現存在を自分のうちへとりもどす」こうした運動であると説明しています。(『精神現象学』「序論」)

この「この展開された自分の現存在を自分のうちへとりもどす」ことが、「絶対知」の冒頭ですが、この対象性のはく奪というのはどの様な契機なのか、これが詳しく展開されてます。

マルクスのこの「ヘーゲル弁証法の批判」は、この箇所を検討することでおこなわれています。
はじめにアドバイスとして、要約的にヘーゲル弁証法の成果と問題点を指摘していました。

そのあとで、それを参考にして、ヘーゲルのうっそうとした森のなかを探っているわけです。

前回、第26回から「ヘーゲル弁証法の疎外の内部での肯定的契機」を探っています。

『経済学哲学手稿』の『ME全集』(真下訳)ではP506第49文節、国民文庫版(藤野訳)ではP231第57文節からでしたが。(ここでは国民文庫版のページと文節で、問題の個所の特定することにします)

P231 第57文節 (a)ヘーゲルは外化(対象化)したものをわがものとするという。それは人間がつくりだした対象的な本質を、それは疎外されたものとしてあるわけですが、それを自分自身のうちに獲得するということ、そのことの洞察だと。
それは、神に対する無神論、私有財産に対する共産主義が、人間回復(ヒューマニズム)としてもつ関係と同様だと。そのことは、元の状態に後戻りすることではないし、空想的な世界にはしるといったことではない。ヘーゲルはあくまでも労働として人間が自己産出していくものとしてとらえていると。

​二、疎外のなかの肯定的契機(b)​

つづきです。マルクスによって、ヘーゲルの展開を追跡します。

P233 第60文節 ヘーゲルは転倒しているけれど、転倒しているがゆえに積極的成果もある。
(b)第一に、ヘーゲルは人間の産出行為を、形式的な抽象的な一般的行為としてとらえているんだけれど。それは、人間を抽象的な思惟するものとして、自己意識としてとらえているからだけれど。

第61文節 第二に、このとらえ方の形式的で抽象的な為に、外化の廃棄(止揚)は外化の承認になる。
どういうことか。ヘーゲルは自己外化、すなわち自己疎外としての自己産出の運動は、絶対的な究極的なおのれ自身を目的として、そこに落ち着いてくる、自己の本質に到達することだと。そのようにして人間の生を明らかにすることなんだと。

第62文節 この外化と、外化により疎外された対象性の克服の運動、これがヘーゲルの弁証法においては真実の人間の生(創造)とみなされる。その生というのは一つの抽象であって、人間的生活が疎外されたものである。
(どういうことか)このとりもどしの過程は神のような過程であり、人間をとおして神的なものがあらわれてくる過程だ、といっている。
(どういうことか)ここには人間の現存在とは区別された抽象的で純粋な、絶対的な本質といったものがある。それが人間をとおして、経過していくそうした過程なんだと。それがヘーゲルは弁証法の過程なんだとは見ていると、マルクスは指摘しているとおもいます。

(人間とは区別された純粋の絶対的本質があって、それが人間をとおして運動していく過程なんだと)

​運動の主体はなにか、どこにあるのか、

P234 第63文節 第三に、この過程は一つの担い手、主体を持っていなければならない。

ヘーゲルは、その主体は成果としてはじめてでてくることを洞察しています。

「この成果、すなわち、おのれを絶対的な自己意識として知るような主体は、したがって神、絶対精神、おのれを知りつつおのれを示すところの理念である」-これはヘーゲルの認識です。

「現実の人間と現実の自然とはたんに、この隠れた非現実的な人間とこの非現実的な自然との述語、象徴になる。したがって、主語と述語とは双方の絶対的な転倒の関係をもっている」-これがその関係に対するマルクスの批判です。

ここには、二人の基本的な見方が、端的に見てとれると思います。
一方は、人間を越えた絶対的精神といったものが出来てきて、存在する。人間もそれによって司られている。人間は絶対的精神の理念のあらわれだと。他方は、現実の人間や自然が主体であり、理念というのはそれから抽象されてくるものだ。
これはたんに人間・自然と精神の根源性の問題だけではなくて、弁証法の運動における問題ですね。


三、余論、この問題の参考文献
この問題を取りあげている著作ですが。

​①エンゲルス「カール・マルクス『経済学批判』」の書評(1859年) ME全集第13巻

冒頭に紹介しました。

不破哲三さんが『エンゲルスと「資本論」』(上) (新日本出版社 P128)で紹介しています。

②『反デューリング論』(1878年)、『空想から科学へ』

ヘーゲルの弁証法は逆立していることが展開されてます。これは『ME往復書簡集』をみると、エンゲルスはマルクスと緊密に相談してだしていることがわかります。哲学部分についてはマルクスの見識を生かした共同作品ですね。

③『フォイエルバッハ論』(1886年)

これは1883年にマルクスが死去して、エンゲルスがその遺稿集のなかから『経済学哲学手稿』をみつけて、独自にさらに検討して、まとめ上げたものですね。

エンゲルスは、青年のブロッホにアドバイスの手紙を送っています。

「(②と③について)、このなかで私は、私の知るかぎりで現存の最も詳細な史的唯物論の説明をしておきました」と。(1890年9月21日付 全集37巻)

今回は以上です。

次回は第64文節からですが、あと残りは11文節でもうすこしです。






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Last updated  2024年09月30日 22時49分38秒
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