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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」の学習27
「マルクスは、ヘーゲルの論理学から、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見をふくむ核心を取りだし、弁証法的方法からその観念論的な外皮を剥ぎ取って、それを思想展開の唯一の正しい形式となりうるような簡明な形につくりあげるという仕事を引き受けることのできた唯一の人であったし、今でもそうである」
今、私などは、うっそうとした森のなかを、あれこれうろうろしてますが、そこで問題となっている核心というのはこれです。 ヘーゲルの弁証法ですが、『内容の魂として運動していく。それは一方では、みずから自分に対して他であるものとなり、他者に内在する内容となる。他方では、この展開された自分の現存在を自分のうちへとりもどす」こうした運動であると説明しています。(『精神現象学』「序論」) この「この展開された自分の現存在を自分のうちへとりもどす」ことが、「絶対知」の冒頭ですが、この対象性のはく奪というのはどの様な契機なのか、これが詳しく展開されてます。 マルクスのこの「ヘーゲル弁証法の批判」は、この箇所を検討することでおこなわれています。 そのあとで、それを参考にして、ヘーゲルのうっそうとした森のなかを探っているわけです。 『経済学哲学手稿』の『ME全集』(真下訳)ではP506第49文節、国民文庫版(藤野訳)ではP231第57文節からでしたが。(ここでは国民文庫版のページと文節で、問題の個所の特定することにします) P231 第57文節 (a)ヘーゲルは外化(対象化)したものをわがものとするという。それは人間がつくりだした対象的な本質を、それは疎外されたものとしてあるわけですが、それを自分自身のうちに獲得するということ、そのことの洞察だと。 つづきです。マルクスによって、ヘーゲルの展開を追跡します。 P233 第60文節 ヘーゲルは転倒しているけれど、転倒しているがゆえに積極的成果もある。 (人間とは区別された純粋の絶対的本質があって、それが人間をとおして運動していく過程なんだと) P234 第63文節 第三に、この過程は一つの担い手、主体を持っていなければならない。 ヘーゲルは、その主体は成果としてはじめてでてくることを洞察しています。 「この成果、すなわち、おのれを絶対的な自己意識として知るような主体は、したがって神、絶対精神、おのれを知りつつおのれを示すところの理念である」-これはヘーゲルの認識です。 「現実の人間と現実の自然とはたんに、この隠れた非現実的な人間とこの非現実的な自然との述語、象徴になる。したがって、主語と述語とは双方の絶対的な転倒の関係をもっている」-これがその関係に対するマルクスの批判です。 ①エンゲルス「カール・マルクス『経済学批判』」の書評(1859年) ME全集第13巻 冒頭に紹介しました。 不破哲三さんが『エンゲルスと「資本論」』(上) (新日本出版社 P128)で紹介しています。 ヘーゲルの弁証法は逆立していることが展開されてます。これは『ME往復書簡集』をみると、エンゲルスはマルクスと緊密に相談してだしていることがわかります。哲学部分についてはマルクスの見識を生かした共同作品ですね。 これは1883年にマルクスが死去して、エンゲルスがその遺稿集のなかから『経済学哲学手稿』をみつけて、独自にさらに検討して、まとめ上げたものですね。 「(②と③について)、このなかで私は、私の知るかぎりで現存の最も詳細な史的唯物論の説明をしておきました」と。(1890年9月21日付 全集37巻) 次回は第64文節からですが、あと残りは11文節でもうすこしです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024年09月30日 22時49分38秒
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