カテゴリ:論考
構造構成的教育論を進める上で,ここで「目的と方法の不思議な関係」について考察しておこう。
最初に「目的と方法の不思議な関係」の一端を実感したのは部活のテニスを通じてだった。 ぼくらは公立の進学校であったが,インターハイ出場を目指し,それなりに一生懸命練習をしていた。今思えばかなり不器用なやり方ではあったが,全力で取り組んでいたとは自信を持って言える。ぼくにとって,「高校生活」=「部活」だったといっても過言ではないだろう。 それほど強かったわけではないが,仙台では優勝したこともあり,チームとしても強いメンバーが揃っていたので,その年の団体戦の優勝候補の一つといっても良かったと思う(ぼくらが1年生のときに県でベスト4には入ったのだがそのときのメンバーのほとんどが残っていたのだ)。 だが,残念ながら最後の大会ではインターハイに出場することはできなかった。 団体戦はまさかの初戦敗退。個人戦も東北チャンピオンに当たって途中で負けてしまった(2番手がインターハイに行けたのは唯一の救いではあったが)。 今思えば,負けるべくして負けたように思うが,部員はみな相当努力していたので,当時はそのように思えるべくもなく,ぼくは部長だったということもあり特に団体戦の初戦敗退はきついものがあった。有り体にいえば,「努力が報われなかった」と感じたのだ。 それから,少し時間がたってからだが,ぼくの人生においてテニスに一生懸命取り組んだ時間はムダだったのだろうか?と自らに問うた。 しかし,ぼくはそうは感じなかった。 一生懸命取り組む中で,仲間のいろんな思い出とともに,何よりも部活に専念できている時間はとても愉しかったからだ。 もちろん,そのときはテニスで勝つことを目的として頑張っていたのだが,その結果残ったものは,不思議とそれ以外のものだったのである(思えば,この苦い経験が心理学を志す原点にもなったのだ)。 そういうものなんだぁ,と何となく思った。 しかしながら,それにつけても,テニスは二度とやるまいとも思っていた。 だが,何の因果か,大学に入ってからもひょんなことからテニスをやることになった。体育会ではなく,同好会だったので,初心者もいたが,神奈川チャンピオンがいたかとおもえば,インターハイ2位がいたりと,上級者のレベルは相当高いものがあった。 最初は軽い気持ちだったのだが,プライドを持ったことに関しては中途半端にはできない熱い性格と,負けず嫌いに火がついて,気がついたらまた幹事長(部長)になっていた。 ということで,今後の人生において役に立つことはないと思っていたテニスの技術は,大学生活という思わぬところでとても役立ってくれた。 また,高校の部活や,浪人生活を通して鍛え育んだ独自のセルフコントロール方(集中法)も役に立った。そのおかげで,勝負所でこそ勝つことができるようになっていた。 こういうこともあるんだな,と思った。 幸運なことに,大学時代の方が多くの実績を残すことができ,多くの賞状をもらえた。 しかし,そこで思ったことは,突き詰めれば,結果やこういうモノにはそれほど意味はないということだった。 引っ越しのときだと思うのだが,小中高校の卒業証書とかといっしょに,大学で獲得した全ての賞状を紛失してしまった。もちろん,それは本意ではなかったので何度か探したが,「まあいいや」とあきらめがつく程度のモノでもあったのである。 目指していたことが達成された後になると,それほど意味をなさなくなっていた。 そもそも違う領域で,ソフトテニスの実績をうんぬんいっても,どうなるわけもない。 そして,テニスの技術は,コートから出てしまえば何ら役にはたたない。 しかし,そうでありながら,確実に残ったものもあるのだ。 高校時代と大学時代では,結果として達成できたことに違いはあったが,「本気で取り組んだ」ということと,その結果「思い出を語り合える仲間」などを得ることができたという意味では,共通していたのである。 ここには,達成すべき「目的」としたことは,振り返ってみれば,それほど意味がなく,それを目指すことを通して得たことが,形の無い財産として残るという不思議な関係があった。 このことは「勉強」にも当てはまることに,大学に入ってから気がついた。 以前,ある帰国子女の人が「日本の受験勉強は何の役にも立たない。大学に入るのに浪人するのは時間の無駄だ」といっていたのを聞いたことがある。 確かに一理あるのだが,全面的には首肯しがたい意見でもあった。 なぜなら,まず,自分自身内容的にはあまり意味がない部分があることを否めない「受験勉強」を通して,確かに「成長」したと思える部分もあるからである。 どこかの部族ではいまだに「大人」になるためには,一見理不尽な「試練」を通過しなければならないという話を聞いたことがあるが,受験は自分にとってはまさに「試練」そのものであった。 もちろん,受験勉強の内容それ自体もまったく役に立たなかったわけではない。 今でも役立っているのは,『現国』と『英語』だ。もちろん,これは研究者という職業がら役立っているのであって,必ずしも一般には当てはまることではないだろうが。 それ以外でいえば,学生時代に家庭教師や塾の先生をやっていたときに「役立った」が,それは,「役立たない知識をいかに簡単に覚えられるようにするか」という限定的な場面で「役立った」といえよう。 このように,受験勉強の内容それ自体が役立つこともあるが,その多くは部分的に,限定的な場面で役立つものであった。 しかし,やはり概していえば,受験勉強で得た知識の大半は役立つことなく忘れ去られていった。 たとえば,「世界史」で習った内容は,ほとんど役に立っていない。世界史の知識それ自体はほとんど忘れてしまった。たとえば,ベトナム史といったマニアックなところもいろいろ覚えたのだが,今となっては「ベトナム史を勉強した」という記憶しかない。 使わない(役立たない)のだから当然といえば当然である。 この意味では,やはり,直接役立つ知識は,それほど多くないということは認めなければならないように思う。確かに日本の受験にはムダが多過ぎるという意見には一理あり,教育内容も再考する必要はあるだろう。 では,「受験勉強」が「試練」以上の意味はないのかといえば,そんなことはないとぼくは思う。 知識そのものは役立つことはあまりなかったが,大学受験をクリアーすることを目指した過程で身につけてきた「学び方」といったものは,その後も「使う」ことがあったし,実際それはとても役に立った。 受験の過程で身に付いたことをより具体的にいえば,「覚え方」「復習の仕方」「点数の取り方」「課題のクリアーの仕方」といったことになる。 これらはすべて「~の仕方」,つまり「方法」である。 「方法」であるゆえに,科目や,テーマを選ばず「使う」ことができるのである。 実際,大学受験などを通して学んだ「学習方法」は,大学入学後も役立ったという人は多いだろう。 定期テストをクリアするために,過去問を集めて傾向を分析し,良質のノートを集め,試験の情報を収集し,対策を立てて,必要最低限のコストで,最大の効果を上げることができるのは,それまでに身につけてきた「方法」のおかげなのである。 このように,獲得すべき「目的」とした「知識それ自体」は,役立つことなく忘れられてしまって,目的達成を通して身につけてきた『方法』の方が,その後の人生においては役立っているのである。 この観点からは,「目的」は『方法』を身につけるための「手段」となっていることがわかるだろう。 教育,学習場面でも,このような目的と方法の倒錯した関係をみることができる。 それでは,目的達成は手段であるのなら,それはどうでもよいのだろうか? 本気になって達成しようとするのは馬鹿げているのだろうか? その答えは「否」であろう。 なぜなら,「目的達成はどうでもいい」という心構えで望んだならば,その過程で身に付く「方法」も,「どうでもいいことを達成する手段」以上のものにはなり得ないからだ。 本気で目標達成すべく取り組んでいたからこそ,その成否はまた別に,その過程で得るものもたくさんあるのである。 本来的に「目的」は「手段」の役割を果たしているのだが,それゆえに,その「目的」は本気で達成されるべく措定されていなければ,それなりの「手段」にしかならない。 ここまでの議論をまとめると次のような「視点」が得られる。 それは,<「目的」は『方法』を身につけるための「手段」なのだが,「手段」であるがゆえに,その「目的」はその時点では「手段」としてではなく,全力で達成されるべき『目的』でなければならない>というものだ。 目的と方法の関係は,逆説の逆説といった形の複雑に錯綜したものになっているのだ。 ぼくは,このような「目的と方法の錯綜関係」を「視点」としてもっておくことは,「教育」という営みを考える上で重要な意味を持つと考えている。 少なくとも,このことに全然気づいていないか,なんとなくわかっているか,あるいは明確に自覚しているかといった『認識のあり方』によって,教育者の『態度』や『行動』において決定的に重大な差異として立ち現れるように思う。 さて,それはどのような違いとして現れるのだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/09/07 12:37:48 AM
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