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カテゴリ:学ぶこと
江戸時代の将軍の中で 四代将軍家綱って あまり取り上げられませんね。 映画化、ドラマ化もされません。 ただ、この四代将軍の時代には 江戸に起きた有名な事件があります。 それは‥ 「由井正雪の乱」「慶安の変」 「振袖火事」「明暦の大火」 「佐倉惣五郎の一揆」などがあります。 一つぐらいは 耳にしたことがあるかと思います。 四代将軍 家綱の時代は 幕府の在り方、将軍家の在り方を 深く考える時代でもありました。 家綱は 三代将軍 家光の長男で 生母は側室のお楽の方であり 寛永四年(1641年)8月3日に 江戸城本丸で生まれました。 幼名は「竹千代」 4歳で「家綱」と名のり 同年4月に元服し、 正二位権大納言になりました。 17歳を迎えた明暦3年に 伏見宮貞清親王の娘・顕子(高巌院)を正室に迎えました。 宮家との縁組は、 摂家の鷹司家と緑組した家光の時よりも 高い家柄を望んでのことであったようです。 10歳で征夷大将軍、内大臣に 任命されるのですが 幼少のため 家光の異母兄弟で 奥州会津藩主の保科正之が 家光の遺言により 家綱の後見人となるのです。 これを保科家は ずっと「恩義」に感じていて これがあの幕末の会津戦争への 悲劇と繋がるわけです。 この時、大奥はすでに厳格に整えられており 大奥総取締役は「お万の方」でした。 家綱は、子に恵まれずに 後継者として末弟である 松平綱吉を養子に迎えることになります。 家綱は 生まれつき病弱で 三代将軍家光の子であったため より一層、影が薄くみえてしまうのは 致し方の無いこととも思えます。 1680年に40歳の若さで この世を去ることになりました。 されど、 天性が慈悲深く、罪人をも憐れむ善政を布き また、武芸を奨励し、軍学の普及にも 尽力したと言われています。 しかし、病弱のせいか家綱は 「さようせい様」と 呼ばれ政治の表舞台には あまり関わりを深く 明暦の大火で江戸城も燃えてしまい持たなかったとも言われています。 大奥も てんやわんやの騒ぎであったことは間違いなく、 お城の再建も 話し合われましたが 天守閣だけは再建されませんでした。 それは 戦いの無い世の中になり、 徳川家の軍事力を出す必要はないと 考えた保科正之は、天守閣を治すよりも、 城下町の復興を選択したのです。 天守閣が無いということは、 平和な世の中を象徴するものになったと 後世に伝わっています。 そうして、時代は「元禄」へ 五代将軍 綱吉 犬公方へと 移ってゆき、ドラマや映画などで 描かれ、皆さんの知るところに なるのです。 余談 昨夜9/12遅くの某TV局の ニュースの内容ですが‥ 先ず、一番最初に報じられたのは 1、北朝鮮とロシアの会談はどこで行われるのか 2、今年のハロウィンには <渋谷に来ないで>の渋谷区長の発言 3、内閣人事のこと そうなのねー 岸田さんは人気がないのかもねー ハロウィーンはまだ先なのに 内閣人事よりも 重要だということなのか〜〜 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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