■苦悩の英雄「ベートーベン」の生涯■
ベートーベンは醜い小男で品がなく、聴力を失う前後から奇行を噂されていました。 1700年代のヨーロッパでは音楽家は、才能があっても、ただの貴族に仕える召使にすぎない存在でしたが、彼は身分制度を憎み、社会に反骨しています。 また、保守的な形を重んじた当時の音楽に新たな形式や楽器の導入を行なったことで有名です。 彼は11歳の時から酒乱の父に代わり両親と、二人の弟の家計を背負いました。激情的な性格でしたが音楽はショパンにも認められ、才があったのです。 後にウィーンに出ても才は認められるのですが、人間関係がダメなのです。貧困は増長していきました。生涯に70回も引越しをしました。 熱き恋もしました。彼は「同じ人間に生まれてどうして貴族が良い生活で身分も違うのだ」と、心から思っていました。自分が恋した女性は貴族の子女で、身分の違いにより恋は実らないのです。「エリーゼのために」は、社会に反脱し、恋を貫こうとした彼の切ない胸の内が叫びのように聞えてくる曲です。 フランス革命が起きました。当時の音楽家は格式を重んじて保守的です。そして貴族のためにしか楽曲を書きませんでした。フランスの一兵卒「ナポレオン」が、民衆とともに戦う姿に感動した彼は、「英雄」を創作しました。民衆のためにはじめて作られたのです。 しかし、後のナポレオンが皇帝になったと聞いて、彼の夢はまた、打ち砕かれて行くのです。 そしてその時にはもう、彼の耳は聞えなくなっていました。限られた人としか会わず演奏会も行ないませんでした。彼に恐ろしい暗黒が訪れました。 人間関係の悩み、貧困、世話をした親族との諍い、恋人との許されぬ恋の破局、夢の崩壊、そして音楽家の命である聴力の失効・・・彼は31歳で遺書を書きました。死にたいといいました。 苦しみ、もがいたのです。幼少の時から、アルコール依存症の父に苦しめられ、一生懸命に働き、誰からも認められない・・・ しかし、遺書を書いて自分を見つめて、彼は、はっきりと変わったのです。何千人も貴族はいるが、ベートーベンは一人なのだ! もう、耳が聞えないことを隠すのはよそう!私はわたしなのだ!私は、はだかになって私でいよう!私に残されたものは音楽だけなのだ! 彼は、自分の出来る唯一のことに、没頭していきました。「交響曲第五・運命」は、あまりにも有名です。その頃に彼が作りました。 指揮者が彼に聞きました。「この楽曲は、どのようにして表現しましょうか?」 彼は答えました。「私の運命が、ドアーを叩いているように・・・・」 彼は、彼であることを決めました!音楽にすべてを託したのです。その後、はじめて、各地の貴族に認められて、耳の聞えない指揮をとったのは有名です。 貧困のボロボロの指揮者でした。楽曲は「交響曲第九、喜びの歌・合唱つき」楽曲が終わった後、彼は演奏者達の戸惑った表情を目の当たりにして「分かって貰えなかった・・・」と、立ち尽くしていました。演奏者の一人が耳の聞えない彼に近づいて、後ろを見るように促しました。 それまではなかったこと、観客が立ちあがって拍手をしていました。 観客の目には涙が光って輝いていました。彼はヨロヨロと歩き、音は聞えないけれど、みんなのあり様に体を震わせて泣き尽くしていました。拍手はいつまでも、消えることはありませんでした。 こんなに不幸な人を私は見たことがありません。しかし、苦悩の末に苦悩を昇華させた彼は,世界の人々の心に響き続ける音楽を数多く輩出しました。 あの、コンサートの日記には次のようにしたためられていました。 「苦悩を乗り越えて、歓喜に至れ」と、、、57歳、ウィーンで行なわれた葬送を数万人の市民が見送りました。 (ベートーベン:Ludwig van Beethoven: 1770~1827)著・松尾多聞札幌は小春日和。まだまだアウトドアのシーズンですね。大雪山の紅葉は来週が見ごろだとか!美しい季節になりました。今日は私の「いずる秋」でお別れです。BGMつきで読んでね。作画・詩作/松尾多聞ではまた。