一見良くないと思われることが人を成長させる
ぼくが真氣光とかかわってきて、これは忘れてはいけないなと思っているのは、「一見良くないことが起こっても、それは自分の成長のもとになる」ということ。 先代の会長も、若いころは人にだまされたり、会社を倒産させたり、つらい思いをしてきた。発明した氣の機械が薬事法で摘発されて、留置所に2ヶ月近く入れられたこともあった。それを乗り越え、大きな志をもってぐいぐい前へ進み始めたとき、脳出血で倒れて、59歳という若さで亡くなった。 その後、今の会長にバトンタッチをするわけだが、一人のカリスマリーダーにたくさんの人が群がってくる状態から、リーダーを中心に多くの人がまとまって、氣の世界を広く伝えていくという形に移行した。今の時代に合う形に変わることができたのだ。 59歳で亡くなった先代は無念だったかもしれない。しかし、新しい会長になって、真氣光は進化することができた。 今の会長も、順風満帆な人生ではない。いきなり、あの強烈な求心力をもった父親から真氣光を引き継いだのだから、大変だったと思う。さまざまなつらい体験もしながら、氣とは何かを追求し続けてきた。 氣とは生命そのもので、平穏無事ではない人生を経験してこそ、わかることがたくさんあるのだ。 だいたい、平穏無事、順風満帆な人生などない。 多かれ少なかれ、だれしもが苦しみや悩みを抱えて生きている。 苦しみ、悩みの日々の中で、どうすれば幸せになれるのか、そこを考え、行動するのが、人としての修行なのだろう。 「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず」 天下を取った徳川家康でさえもそう言っている。いや、重荷を背負って行くのが当たり前だと思っているからこそ、天下が取れたのかもしれない。 苦しみがない人生をだれもが望む。ぼくも同じだ。 でも、必ず苦しみはやってくる。 そのときにどう対処するか。人それぞれやり方があっていいのだが、苦しみ、悩みに埋没しないことは大切だと思う。 真氣光では氣を受けましょうと言っている。 氣のレベル、つまり生命力が落ちると、悪い方、悪い方へと考えがちになる。力を抜けば浮き上がれるのに、力んでしまって沈んでしまう。 少し自分自身から距離を置くことで、いかに自分が力んでいるかがわかり、どうしたら力が抜けるか見えているはずだ。 氣を受けたり、気功をやっていると、ふっと自分を外から見る瞬間がある。 その瞬間を大切にしたい。 自分にも言い聞かせていることだ。