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カテゴリ:すてきな人びと
通販などでものを購入して送られてきた時に梱包に使われている新聞紙、普通なら一生目にしないようなローカルな新聞だったりするので、そんな時はしわを伸ばして読むのがひそかな楽しみなのですが、1ヶ月ぐらい前でしたか、目が悪いし薄暗かったのでよくわからないながら歌舞伎か文楽かもしれないお姫様みたいな写真が載っていたので、あとでメガネをかけて見ようと置いておきました。
外出から帰ってふと見ると、「川崎富作先生の死 ショック」という小見出しが目に飛び込みました。 読者の投稿欄でした。検索すると、6月に95歳で亡くなられたということです。 川崎富作先生とは、川崎病を発見した小児科医で、日赤を定年退職なさってから80過ぎても開業医として現役でお仕事をされていたことは、以前なんとなく思い立って検索したときに知っていました。 90歳過ぎて引退されていたそうです。 実は先生が川崎病発見で有名になられる前に、子どもの頃たいへんお世話になっておりました。 扁桃腺炎と喘息性気管支炎に交互になっていた私は、母におぶわれてよく日赤病院に通いました。 (余談ですが、病院の前にあった、当時シュークリームが評判で遠くの人にまで有名だったビクトリアという洋菓子屋さんに帰りに寄るのが楽しみでした。やわらかい皮にはみ出るほどたっぷりカスタードクリームが入っていました。) その後喘息は起きなくなり、おかげさまですっかり丈夫になりましたが、まだ小児科か、それとも普通の内科かという微妙な年齢になった頃、片側の顎下腺がちょっとぐりぐりして痛くなったので行きつけていた小児科に母に連れられて行きました。一時はこぶとりじいさんみたいに腫れましたが、口内炎から最近がはいったのだろうということでした。 回復するまで静脈注射に通ったのですが、なんと川崎先生は病院の始業時間前に来てくださって注射をして、ちょうどお子さんが私の学校の系列の幼稚園に通っていらしたので一緒に車に乗せて送ってくださったのです。数日は続いたと思います。お子さんがちょっと遅刻になるので気の毒だなと思ったのですが。 その何年まえか、小学校入学のときに、レントゲン写真を各自病院で撮ってもらって学校に提出する必要があって、日赤病院で撮ってもらったら、写真に小さな✖️印がつけてあるところがあって、母が「これはなんですか?」と聞いたら、先生は、「日赤の川崎が大丈夫だと言っていたと言ってください」と朗々とした大きな声で笑いながらおっしゃったのを覚えています。 検索して出てくる写真は笑顔のことが多いですが、実際明るくたのもしい先生でした。 ずっと前に放送された川崎病のドキュメンタリーで患者さんの母親が、「いちばんベターでしょう」と先生がおっしゃったと日記に書いていましたが、それが口癖でしたね。 中学に進学するのに試験があると母が言った時には、私も国家試験がいやでしたとおっしゃって、親しみを感じたものです。 たくさんの病気の子供たちを助け、母親たちをはげまして来られた人生でしたでしょう。 どうもありがとうございました。 ご冥福を御祈りいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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