戯曲「愛情は深く、青い海のごとく」 その十二
フレディー いいや、御免、ヘス。へスター そんなに残酷にしないでよ、フレディー。どうしてそんなに残酷にするのよ。フレディー ヘス、これは我々にとって最後のチャンスなんだ。これを逃したら、もうおしまいだよ。お互いが、お互いにとって死なんだ。君と僕とが。へスター それは本当じゃないわ。フレディー 本当さ、君。そして君はその事を僕よりもずっと前から知っていた。僕はまるで木偶の坊だから、それが問題の元だった、もっと前に決着をつけるべきだったんだし、それを君は知っていた。それは、我々の頭に忌まわしい火の文字で書き込まれていた、君と僕は、お互いにとって死を意味する、と。(へスターは堪えようもなく泣いている。フレディーは彼女のところへ来て靴を手にとった)へスター まだ磨き終えていないのよ。フレディー 大丈夫さ、(靴をはく)御免よ、ヘス。ああ、神よ、申し訳ない。どうか、泣かないでくれよ。それが僕にどんな打撃を与えているか、知らないのだよ。へスター 今は駄目、ちょっとだけ、少し待ってね、フレディー。(彼は靴を履き終えると彼女に背を見せて、自分のシャツの袖で目を拭った)へスター (彼の所に行き)あなたの所持品は此処にあるわ。ひとまとめにするだけよ…。フレディー 郵送しようと思う。へスター あなたは夕食には戻ると約束したわ。フレディー 知っている。それに関しては謝るよ。(彼女にキスすると、急いでドアーの所へ行く)へスター (狂ったかのように)でも、そんな風に約束を破っちゃいけないわ、フレディー。ダメよ、夕食には戻ってらっしゃいな、フレディー。私、議論なんかしない、誓うわよ。そして、それからもしもその後で…、去っていくのなら…。(フレディーは外に出る。彼女はドアーの所へ彼の後を追う)フレディー、戻って、行かないで、今夜、私を一人にしないでよ、今夜は、今夜だけは私を一人にはしないでちょうだいな。(彼女は彼の後を追って行く。幕が閉まる) 第 三 幕場面 同じ 幕が上がるとへスターが腰を下ろしている。動かずに、緊張して、両目をじっと凝らして前の対象を凝視している。かなり長い間があって、電話が鳴る。へスターの反応は彼女が今経験している神経の緊張を明瞭に示している。彼女は受話器に手を伸ばし、手を降ろす、それから立ち上がって電話の近くに寄り、数回呼び鈴が鳴るのを待ってから受話器を手にとった)へスター もしもし、ああ、いいえ、彼は今外出しています、残念ですが、はい、そうですね、どなた様でしょうか、ああ、はい、今晩は。彼の戻る時間は正確には分かりません。今は、何時でしょうかしら、十一時十分…、もうそんな時間でしたか、ああ、いいえ、眠ってはいませんでした、ただ読書をしていたのですが、はい、間もなく戻るはずなのですがね…、ゴルフの件ですか、はい、彼から電話させましょう、彼はそちらの電話番号を知っているのでしょうかしら…、はい、良くわかりました。お休みなさい。(彼女は受話器を元に戻した。暫くそれを見つめたままで立っている。しばらくしてから、彼女は衝動的に手を伸ばして受話器を手に取ろうとして、手を伸ばしたままで、絶望したように手を下ろした。彼女は向きを変えて、また前の椅子に戻り、最初の様に前を見詰めている。ドアーの所でノックの音がする。彼女が開けると、エルトン夫人がいる。エルトン夫人 今晩は。へスター はい、エルトン夫人。エルトン夫人 ちょっとお伺いして御様子を見てみようと思ったのです。ペイジ氏は在宅ですか。へスター いいえ。エルトン夫人 暖炉に火をつけないのですか、急に寒くなりましたからね。へスター はい、大丈夫です。エルトン夫人 まあまあ、カーテンも閉めないでいらしたのですね。(半分開いているドアーをノックしてアン。ウエルチが探るように頭をのぞかせた)アン あら、失礼します。へスター 今晩は。アン 今晩は、ペイジ夫人。ひょっとしたらフィリップがこちらにお邪魔しているかと思ったものですからね…。ヘスター フィリップ、ああ、ご主人でしたね。いいえ、いらしてはおりません。アン 多分、ペイジ氏は帰宅されていると思ったのです、それで…。ヘスター (興奮して)彼はご主人と一緒なのですか。アン はい、そう思うのです。ヘスター 何処にいるのでしょうか。アン そうですね、分かりません。私は二人とは一緒に行きたくはなかったのですよ、仕事があったので。でも、二時間ほど前に出かけたので、今は…。ヘスター (アンに)どのようにしてあなたは二人と会ったのですか。アン 私どもはベルベデーレの店で夕食をとっていたのです、そしてペイジ氏がバーにいて、私達のテーブルに来たのですよ。ヘスター そうでしたか。アン 私達は殆ど彼の存在に気付かなかったのですよ、それで、ご主人はとても素敵で、友好的で、一緒に歓談したいと申し出られたのです。それから彼は私達二人にブランディーをご馳走して下さり、その後で、フィリップに新規開店のクラブにちょっと寄ってみないかと誘ったのです。ヘスター どの、新しいクラブですか。アン 名前はよく覚えていないのです。ヘスター 彼はどんな様子でしたか。アン どういう意味でしょうかね。ヘスター 酔っていましたか。アン そうですね、そんな風には感じられませんでしたが。もちろん、二時間前の状態ですがね。フィリップは全くの素面でしたから、当然に、大丈夫だと思われます。ただ、その…、全く馬鹿らしい事なのですがね、私一人残されて、気分を害したのです。ヘスター (微かに笑って)はい、分かりますわ、ウエルチ夫人。理解できます。でも、心配はご無用です、ご主人は間もなく戻られるでしょうから。アン ああ、そうですね。そう期待しております。もし彼がこちらに参りましたら、直ぐに帰るようにしてくださいな、お願いいたします。ヘスター はい、そういたします。さようなら。アン お休みなさい。(彼女は去る)ヘスター エルトン夫人、あなたは新しいクラブの名前を覚えていますか。エルトン夫人 いいえ、覚えていません。御免なさいね、あなた。ヘスター 私はカードが来ていた筈、確か、(急に)カラスの塒、だった。(彼女は電話帳の所に行き探し始めた)エルトン夫人 そうでしたね、そんな風な名前でしたね。(彼女はへスターを同情するようにへスターが名前を見つけてダイアルし始めたのを見守っている)ヘスター もしもし、ペイジ氏はそちらに行ってますでしょうか、ペイジ氏です…、はい、そうです、はい、ああ、そうですか、どのくらい前ですか…、三十分、分かりました。彼が何処に行ったか分かりませんか、分からない、いいえ、大丈夫ですわ、もし、彼が戻ってきたら、家内から電話があったと伝えてくださいな…、(狂気じみて)いいえ、電話を切らないでね、従業員さん、彼には何も言わなくて結構です、何も言わないで下さい…、そうです、その通りです、さようなら。(ヘスターは電話を切る。エルトン夫人は頭を振った)エルトン夫人 私にはまるで理解できないわ、どうしてそんな風な事が出来るのか、あんな出来事が起こった夜にあなたをひりにして外出するなんて…。ヘスター (唐突に)エルトン夫人、お仕事があったのでは?エルトン夫人 (静かに)はい、あなた。沢山ありますわ。(彼女はドアーの所に行く)ヘスター (急いで)ごめんなさいね、意地悪を言ったのではありませんよ。エルトン夫人 (向きを変えて)ああ、ご心配には及びませんよ。あなたが意地悪であるはずがありませんよ。そんな人ではありませんからね。あなたは私の秘蔵っ子なの、私の大好きな住人よ。ヘスター 私が、ですか。エルトン夫人 (頷きながら)悲しいわね、良い人よりも素敵な人を選ぶのが人と言うものでしょう、如何…。(彼女がドアーを開けたままなので、ミラーがコートを着て、ドアーの外にいるのが分かる。彼はやや大きな革の荷物を運んでいる)ああ、今晩は、ミラーさん。お仕事から早く戻られたのですね。ミラー はい。(ヘスターに)ご機嫌は如何ですか、今夜は…。ヘスター とても快調です、有難う。いつもこんなに遅くまで仕事なさっているのですか。ミラー 時々です。ヘスター その恐ろしい様な様子をしたバッグに何を入れていらっしゃるのでしょう。ミラー 何でもないです、全然、何でも。(彼は階段の方に歩いていく)エルトン夫人 ああ、ミラーさん、お尋ねしたくはなかったのですが、今夜家の亭主を診察しては下さらないでしょうかね。彼は加減が悪いのです。ミラー 五分程で戻ってきましょう。エルトン夫人 とても感謝致しますわ。有難う存じます。(彼は階段を登っていく)彼にあのカバンの事を訊いたりしないほうがよかったのですよ、あなた、彼は言うのを嫌っているのです。ヘスター (茫然としている)御免なさい、そんなには知りたかったわけではないのです。ただ、お愛想のつもりでしたのよ。(彼女は電話を見詰めている)エルトン夫人 私なら、今夜はあの機器を使わないでしょうよ。ヘスター 多分あなたは正しいわ、(腰を降ろす)エルトン夫人 何故、お休みにならないの。私が何か素敵な温かい飲み物を持ってきましょう。(ヘスターは頭を振った)それとも、ミラー医師に眠り薬をあなた用に調合して頂きましょうか。ヘスター 彼は医者なのですか、当然のことでしょうが。エルトン夫人 そうね、医者でした。ヘスター 分かります、彼は何か問題に巻き込まれたとか。エルトン夫人 どうしてそれを…。ヘスター 同類意識でしょうかしら、思うに。エルトン夫人 そうなの、彼はかつてトラブルに巻き込まれてしまった。(ヘスターが頷く)私がお話したなどとは言わないでくださいね。哀れなミラーさん、お気の毒に思うのですよ。人々に知られるのを恥じているのです…。