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テーマ:聖教新聞を読んで・・・(256)
カテゴリ:新・人間革命
田川は、筑豊炭田最大の炭労都市であった。
山本伸一が、田川のことを、とりわけ強く心に止めるようになったのは、一九六八年(昭和四十三年)に九州を訪れた折、田川の一粒種の婦人から質問を受けたことがきっかけであった。 「田川では炭鉱が閉山になり、皆、生活苦にあえいでいます。田川の人たちは、どうしたら幸せになるのでしょうか」 必死な訴えであった。石炭から石油へと時代は変わり、日本経済を支えてきた炭鉱は斜陽の一途をたどっていたのだ。同志も職を失い、次々と都会へ移っていった。 そのたびに、この婦人は、皆を励まし、送り出してきた。 「私たちは、誉れの田川の同志や。どこへ行っても、田川の名を絶対に汚したらいかんばい」 しかし、田川での暮らしは逼迫していた。出ていく同志が羨ましく思えることさえあった。青年部員は、ほとんどいなくなり、座談会を開いても、参加者は五、六人になってしまった。 そのなかで彼女は、田川の信心の炎を消すまいと、懸命に頑張り抜いてきたのだ。 婦人の質問に伸一は確信に満ちた声で答えた。 「どんな事態に追い込まれようが、必ず活路を開いていけるのが信心です。負けてはいけない。そして、題目を唱え抜いて、同志を守ってください。頼みますよ」 翌年二月、東京に来たこの婦人から、伸一は報告を受けた。 「先生、田川の同志は大変な状況ですが、今こそ信心の力を示そうと、真剣に戦っています。みんな元気です」 「そうか。私は来月、福岡の九州幹部会に行くから、そこに田川の代表を招待しましょう」 三月七日、九電記念体育館での九州幹部会に、彼は代表五十人を招き、席も壇上に用意した。 この幹部会で伸一は、厳しい条件のなか、健気に戦うメンバーの活躍を紹介したあと、叫ぶように呼びかけた。 「皆さんは、どんなことがあっても、最高の幸せ者になってください」 ”よし、負けんばい!” 田川の同志の顔に、誓いの涙が光った。 さらに伸一は、帰途に就くメンバーに、心尽くしの菓子を贈った。皆、伸一の真心をかみしめ、決意を新たにしたのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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