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テーマ:∽ 自分を知るために ∽(97)
カテゴリ:考える事・心理学
今、すごーく晴れ晴れとした気分。今まで学んだ事がつながってきて、スッキリしてきた。
これも、いろんな出逢いや、助言をくれたのみんなのおかげ。 ありがとう。 半年くらい前、カウンセリングで、自分を100点満点とすると、今は何点か、と聞かれた。 私は、80点。と答えた。 自分でビックリした。私は、自己評価の低い人だったからである。 アドラー心理学に出会って、こんなに変われたんだ。と、嬉しかった。 だからと言って、アドラー心理学の実践が出来ているわけでもない。でも、出来ていないけれど80点。うん。いいね。この調子。ってその時思った事を思い出した。 そうだ。私はちゃんと前に進んでいる。(^^) ここのところ、私は自分と闘っているのか。闘ったらいけないのか。という事を考えていた。 アドラーの理論を勉強していながら、実践していない自分を、自分で責めていたのかもしれない。 自分を許さなければ前に進めない。そうだ。許せばいいんだ。(笑) (アドラーなら、前に進みたくないから自分を許さない。というのかな…。^^;) 「闘う」という事がどういう事を意味しているのか、たぶんそれぞれの考えで言葉の意味は変わる。 私は、「自分の問題と向き合う」という意味だと思っている。 そういう意味で、私は自分と闘いたいのだ、きっと。 岸見先生が教えてくれた。 自分と闘うということで意味されていることが、ひょっとしたら違うかもしれないのですが、少し説明すると。アドラーは自分について、自分には能力がないと思うことは問題にするでしょう。しかし、自分に厳しいこと(このことを自分と闘うという意味だと僕は考えています)は必要なことではないかとすら僕は考えています。他者には寛容ですし、他者の課題に必要もないのに口出しをしようとは思いませんが。動機があまりに個人的なものでなければ、優れていようとすること(優越性の追求という固い言葉で僕は訳しています)はアドラーは否定しているわけではありません。名誉を求めるとか、過度の野心が伴うと問題にはなるでしょうが。 アドラーはライフスタイルを変えなければならないといいますが、それは体験によるのでも感情によるのでもなく、ただ知識によってのみ可能だと考えています。ですから、「厳しい」という言葉であるいはイメージされるような、できないけれど頑張るというような歯を食いしばってというようなことをいっているわけではありません。 なるほど。(@@) 知識を得て、それをすると決めて、行動する。 ただ、それだけ。 …そうだった…。なんか、ついこの間もこの言葉を聞いたような?(笑) いろいろつながってるな~。 アドラーは、「自分の創始した心理学は理論であるばかりでなく“心の態度”である」と言っていたのだそうだ。 何だか、最近の私は、課題がどんどこ増えてしまっていて、全部解決できるんだろうか…と思っていたけれど、結局は、“心の態度”を改めるだけ(だけって! ><;)で、全て解決されるような気がしてきた…。(^^; 他者(特に子ども達)に寛容になれず、他者の課題に口出ししてしまう私は、自分が変われば良いだけなのだ。(爆) 岸見先生は、『アドラーを読む』の、あとがきでこんな風に書かれている。 アドラーさえ知らなければ、我が身の不幸を無邪気に過去の出来事や外的な事情のせいにできたであろう。それなのに、アドラーは、そうではないのだ、あなたが選んできたことなのだ、というのである。 こんなことをいうアドラーから私は何度も逃げ出したい、と思った。それなのに、なぜか他の誰よりも私はアドラーに惹かれた。だからこそ、アドラーの著作を翻訳し、入門書まで書いたのである。ソクラテスは「吟味されない人生は生きるに値しない」といっている。アドラーを読むことは、人生の生き方を吟味することである。 私もなぜだか、アドラーにとても惹かれる。 そうなんだね。 きっと道はひとつじゃないんだ。 私は、間違った地図(もちろん、自分で書いた地図だ。この地図のままではきっと目的地にたどりつけない。)を持って、目的地に向かおうとしていた。 でも、その地図は私にとって良い地図じゃない、と知って、新しい地図に書き直そうとしている。 見本になる地図はいろいろあるかもしれないけれど、私はその中から、アドラーを選んだ。 (正確には、まだ選べていないのかも…選びたいと思っている…?) きっと、そういう事だ。 私はきっと変われると思う。(^^) ←自分にいい聞かせ中。笑。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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