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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
越前出身の継体天皇は、皇位を乗っ取ったのか 5月1日に即位した今上天皇(徳仁)は、第126代の天皇ということになる。明治以降の軍国教育の中で日本は「万世一世の天皇を戴く神の国」であるとされた。初代天皇は神武天皇で、紀元前660年の即位とう。これは縄文時代晩期のことである。 もちろん神武天皇が実在しないことは明らかだ。天皇制が中国の唐から取り入れた律令制度とともに確立されたのは8世紀の前半である。それと同時に編纂された「古事記」や「日本書記」は、皇室の正当性を神話と結びつけて強化した。そこで神武天皇が初代天皇と位置づけられた。 126代の天皇の中で、どこからが実在の天皇かというと、いくつかの説がある。確実なのは9代の開花天皇までは実在していない。「記紀」にも事績や妃や子どもについて記述がないからだ。 これらの天皇は、神話の中から生まれた神武天皇と実在の天皇との間を埋めるために創造された。では、10代の崇神天皇からは実在していたのか。これにもいろんな異論がある。現在、現皇室の始祖については4つの説がある。 10代の崇神天皇(在位前97~30)、15代の応神天皇(在位270~310)、21代の雄略天皇(在位459~479)、26代の継体天皇(在位507~531)の4人である。崇神天皇について言えば、中国の漢の時代で、後漢書によれば倭の国は100余国に分かれていた。実在性はかなり薄い。 「継体天皇関係の記述」 応神天皇は中国の宋に遣使した「倭の五王」のなかの讃に比定される。その子が16代の仁徳天皇(仁徳天皇陵~今は疑問も出され大仙陵と呼ぶ~という日本最大の古墳を築いたといわれる)で、倭王の讃か珍に比定されている。そして、仁徳天皇の孫が倭王武に比定される21代雄略天皇につながる。 実在した最初の天皇と考えられる4人のうち、15代の応神天皇(在位270~310)から21代の雄略天皇(在位459~479)までは、その事績についても中国の宋書などで明らかである。まず、間違いなく実在しただろう。大きな古墳が河内や大和地方に作られる時代とも一致している。 では、そのずっとあとの6世紀初頭の26代継体天皇が始祖とされる根拠な何なのか。これが、継体天皇が謎の天皇と言われる一番のゆえんである。特に継体の時代は、百済の武寧王の在位期間と重なるので個人的にも興味深い。 継体天皇は応神天皇の五世の孫とされる。この「孫」は現在使っている孫の意味ではなく、「子孫」と考えたがいいようだ。5代あとの子孫というが、応神天皇の没年310年から継体天皇の即位年の507年まで約200年の時間がある。また、皇位に着く前に継体は越前の一豪族だったと言われる、 25代の武烈天皇に後継ぎがなく、皇統が絶える危機を迎え、大伴金村らの豪族たちが仲哀天皇の五世孫(倭彦王)を天皇に迎えようとしたが逃げられた。そこで、当時越前に住んでいた大迹王(おおどおう)を向かえて26代の天皇にしたという。これが継体天皇なのだ。 「継体天皇関係の出版物」 この出来事を、実は北陸の豪族による皇室乗っ取りだとする学者もいる。神武以来の神話にもとづく天皇家は、いったんここで断絶したというのである。継体が実在の最初の天皇だとする説もここから出ている。実際に北陸には多くの古墳がある。同時は日本海を通じて朝鮮半島や出雲地方、北九州との交流も盛んだったのだろう。それを考えると北陸の豪族の勢力も侮れない。 記紀の記録では、継体は24代仁賢天皇の皇女を妻にしている。応神の五世孫ということと、皇女を妻にしたということで皇統の継続性を示そうとしたのかもしれない。 最近は継体天皇関係の研究書も多いが、謎は深まるばかりだ。自分は継体天皇即位の前から、百済の武寧王(佐賀県の加唐島で生誕、百済中興の名君)が連携していたということに関心がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019/06/25 04:17:12 PM
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