佐賀の乱は「佐賀戦争」(7/14)
初めて歴史教科書に(佐賀の乱)と併記 幕末から明治維新にかけて、佐賀藩(35万7千石)は、「佐賀の七賢人」と呼ばれる人材を輩出した。彼らは明治維新の立役者であり、顕著な業績を残している。 鍋島直正=藩政改革、財政再建、藩校での人材育成。蘭学の振興 西洋の軍事技術の導入、大砲や鉄砲、蒸気船の製造。 (明治4年に死亡する、藩校弘道館から多くの人材がでる) 大隈重信=大蔵卿、外務大臣、総理大臣(2回)、早稲田大学を創設。 佐野常民=大蔵卿、農商務大臣、元老院議長、日本赤十字社を創設。 大木喬任=東京府知事、民部経、文部卿、元老院議長などを務めた。 副島種臣=内務大臣、外務卿、特命全権大使、書道史に大きな足跡。 上述の5人のほかに、「佐賀の七賢人」には次の二人が含まれる。 江藤新平=文部大輔、司法卿、近代司法体制の生みの親、三権分立を推進。 島 義勇=北海道の開拓判官として札幌の都市計画を推進、秋田県知事。 この二人は、1877年の「佐賀の乱」で斬首晒し首という極刑を受けた。 (1919年特赦により赦免) 「佐賀の乱」の呼称については、佐賀では古くから再検討すべき声があった。現役時代に自分がかかわった「佐賀県中学校社会科研究会」が編集に関わっていた「県版歴史資料集」では、ずっと前から佐賀の乱(佐賀戦争)と併記して表現していた。「教科書も佐賀の乱(佐賀戦争)を併記」(来年度から使用される教科書~中学生の歴史:帝国書院) ※7/14 佐賀新聞より 1874年2月、佐賀には「征韓党」と「憂国党」という二つの士族結社があった。二つの結社が藩閥政府に反乱を起こす動きがあると聞き、江藤新平と島義勇はその動きを押さえようと佐賀に戻った。しかし、逆に江藤は「征韓党」の、島は「憂国党」の首領に押され、不本意ながら不平士族の側に立ち蜂起した。 佐賀勢(約3500~6000名)は佐賀城を占拠したが、徴兵制による政府軍の前に一月足らずで敗色濃厚となる。島は脱出して鹿児島に向かうが3月7日に捕縛された。江藤は東京で裁判を受けるべく、鹿児島で西郷隆盛に助力を頼むが断られ、高知で片岡健吉らに断られる。そして、3月19日に高知県東洋町甲浦で捕縛される。 江藤は自分自身が作り上げた警察網によって捕縛されるという皮肉な結果になった。それでも、江藤はあくまでも初代司法卿(法務大臣)として、自らが作り上げた裁判制度で自己の考えを主張する予定だった。 司馬遼太郎は「歳月」で、江藤新平の人物像や新政府における業績を、ニュートラルな立場で描いている。圧巻は江藤の逃避行のシーンと、江藤が佐賀に護送されたあと、一言も弁明を許されずに一方的な暗黒裁判で斬首される場面である。「歳月」(ニュートラルな立場で江藤とその周辺を描写、講談社2009年11月第9刷) 内務卿大久保利通が「佐賀の乱」を超法規的に処断したのは、当時各地で予想された不平士族の暴発を押さえるためだった。結果的には佐賀の乱後も、1876年の神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、1876年10月には萩の乱(山口)などが起きた。そして、1877年には西郷隆盛を中心とする西南戦争(鹿児島)という最大の内乱が発生する。 西南戦争は、何十年か前までは「西南の役」と教えていた。いつからか、「西南戦争」とよぶようになった。端的に言えば、「乱」は反乱で犯罪的行為。だが「戦争」は主義主張が異なる集団同士の対等な戦いという意味。「中学生向け郷土学習資料」(全生徒に配布 発行:佐賀県教育委員会 令和5年第5版) 佐賀の乱も、維新政府の政策に異議を唱えて旧士族が政治改革を求めて立ち上がった側面がある。その視点から見れば、「佐賀戦争」という言葉が併記されていても不自然ではない。 歴史は権力者によって書かれてきた。しかし今は、新しい見方が進んでいる。新しい史料や遺跡が発見されたり、歴史学・考古学・地質学・気象学・天文学などが学問の枠を超えて歴史的現象を解析する試みも増えている。そこから発見される新しい視座は、我々に斬新な視点を提供してくれるだろう。 それは、歴史を学ぶ者だけでなく、今生きている全ての人々をわくわくさせる。そして、混迷する現代社会に身を置きながら、多くの人が歴史から学び、自分や社会の今後の在り方を考えるようになることを願いたい。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング朝焼けの三瀬街道 信念を貫き通した男江藤新平 [ 池松美澄 ]価格:1,485円(税込、送料無料) (2024/7/27時点)