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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
今城塚古墳を歩く 宮内庁は、継体天皇(在位507~531)陵を、太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)としている。しかし、太田茶臼山古墳は2002年の調査で5世紀半ばから後半の築造であり、継体大王の時代より半世紀ほど古いことが判った。そこで、現在は多くの学者が今城塚古墳(大阪府高槻市)を継体大王陵としている。 一般に「継体天皇」と呼ぶが、この頃はまだ天皇という称号はなく、ここでは継体大王(けいたいおおきみ)と書く。また、「継体」は死後のおくり名で、存命中は男大迹王(おほどおう)と呼ばれた。 何かと公私とも多忙な時期に今回の旅を計画したのは、継体大王の在位が百済25代王武寧王の時代と一致しているためである。両者に何らかの接点が考えられないだろうか。そのためには、即位の時点から何かと謎の多い継体大王のことを少しでも調べてみようと思ったわけである。 「今城塚古墳の後円部」 大阪空港(伊丹)からレンタカーを借りて、今城塚古墳についたのは12時半を過ぎていた。陽射しが強い中を時計回りに後円部から前方部に向けて一周した。汗ばむ陽気の中を、全長186mの古墳を一周すると久しぶりに良い運動となった。 現在は内堀の大部分は芝生が張られ公園となっている。芝生の上に弁当を広げてピクニックをしている人たちもいる。この今城塚古墳は、宮内庁指定の陵墓でなかったので、私有地として田畑にされていた時代もあり、かなり荒廃していたが発掘によって貴重な遺跡であることが分かり、今はよく保存されている。外堀まで含めると全長は350mに達し6世紀前半としては全国屈指の規模を誇る。 「堀で囲まれた前方部」 この今城塚古墳が注目されるのはその大きさもさることながら、実は数多くの大型形象埴輪が発掘されたことによる。平成13年6月13日、大型の形象埴輪の破片が足の踏み場もないほど大量に発掘された。さらに、埋もれていた馬、犬などの動物や武人、巫女、力士などの人物埴輪の足の部分が発掘されたことで、築造時に置かれた埴輪の位置がわかったのである。 「再現された埴輪群」 この埴輪群は、当時の祭祀の様子を再現している。継体大王の権威を人々に見せつけるために、一般には墳丘部におかれる形象埴輪を、外から見える位置に整然と並べたというわけだ。 この日(9月17日)は祝日の翌日ということで、今城塚古代歴史館は休館だった。そこで、継体大王が即位(507年)して最初に都をおいた樟葉宮(くすばのみや)跡に行ってみた。枚方市交野樟葉の住宅街の中に交野天神社があり、神社の奥のほうにあった石柱に継体天皇樟葉宮跡伝承地と彫ってあった。 「樟葉宮跡」 なぜ樟葉宮だったのかというと、淀川の水運を利用するのに便利な地であったからと言われている。筒城宮も弟国宮も水運に恵まれた地であった。そして、継体大王が大和に入って磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや~奈良県桜井市池之内)に都を定めるのは526年、76歳の時だった。その時、彼に残された命は5年しかなかった。 継体大王は近江(湖西地方)で生まれ、幼少期を母の出身地である越前で過ごしたというのは大方の認めるところである。越前地方は日本海を通じて朝鮮半島との交流があった。当地の古墳からは朝鮮半島の文化の影響を受けた遺物も多く出土した。越前で成長した継体大王は、渡来人の支援を受け、淀川の水運を利用しながら力をつけ、今城塚古墳のような大きな古墳を造る力をつけていったのだろう。 「淀川の下流」 継体大王が、当時の政権の中枢である大和に入るのに相当な年月を要しているのは、継体天皇に敵対する勢力(豪族の連合)がいたからという。また彼が、日本書記にある「応神天皇の5世の孫」という説に疑問を持つ学者(上田正昭~2016年没;京都大名誉教授)もいる。その説に従えば、継体大王から、仁徳天皇などの血縁とは異なる新しい王朝が始まったと考えることもできる。 当時の皇位継承にあたっては常に有力な豪族や渡来人の勢力が複雑に絡んでいた。いずれにしろ、現時点では解明されていないことも多くあるが、今城塚古墳を歩いてみて、継体大王のイメージが少しずつ浮かんできたようである。
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Last updated
2019/10/16 03:55:02 PM
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