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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
石上神宮と箸墓古墳 今日の夜は千里中央のホテルに連泊である。荷物は整理して必要ないものを部屋に残して昨日伊丹空港で借り出したレンタカーで出発する。今日は、石上神宮(いそのかみじんぐう~奈良県天理市布留町384)を最初の目的地とした。 ホテルを出て、中国自動車道、近畿自動車道を走り西名阪自動車道で大和盆地に入った。天理東ICを降りてしばらく南下すると石上神宮の看板が見えてきた。周辺は市街地化が進んでいるが、神宮の周辺には田んぼが広がり収穫期が近づいた稲穂が垂れていた。 「秋の風景」 石上神宮は「七支刀(しちしとう)」が伝来されていたことで有名である。長さ75cmの刀身から6本の枝刃が出ているので「七支刀」と呼ばれる。明治七(1874)年、刀身に金象嵌名文があることがわかった。文中に「泰□四年」とあり、それの年代にはいくつかの解釈がある。(□は読み取り不能) 日本書紀に「『ななつさやのたち』が、(4世紀中ごろ)倭に対し百済が朝貢した際に献上された」という意味の記述がある。それが事実とすると、「泰□四年」は372年となり、百済25代武寧王と26代天皇継体大王との時代より1世紀弱さかのぼる。いずじれにしても、百済と日本との関係を示す史料として重要であることは間違いない。それが伝来されていた石上神宮を見ておきたかったのだ。 「石上神宮の入り口」 日本書記で「神宮」と書かれているのは「伊勢神宮」と、ここ「石上神宮」のみである。他の神社よりも古くて別格であったことが分かる。でも、伊勢神宮よりもはるかに小さい。ヤマト朝廷で軍事をつかさどっていた物部氏が祭祀し、大量の武器が保管されていた武器庫だったと言われる。 「拝殿~国宝」 拝殿周辺には、「七支刀」に関する掲示やパンフレット等はない。高揚していた気分が少し覚めた。平成27(2015)年開催の、九州国立博物館の特別展「古代日本と百済の交流」では、本物が展示されたので見学に行った。その時の展示資料一覧の「七支刀」の項の所蔵欄は「奈良・石上神宮」となっていた。拝殿の奥に本殿の屋根がわずかに見えた。「七支刀」はそこで厳重に保管されているのだろう。 「拝殿とその奥の本殿」 石上神宮を出て、近くの箸墓(はしはか)古墳に行った。ここは孝霊天皇の皇女の墓とされていて宮内庁が管理している。ここが邪馬台国近畿説の学者の間では卑弥呼の墓とされている。残念ながら立ち入り調査ができないため、卑弥呼の墓は謎に包まれたままである。 「箸墓古墳正面」 墳長は約278メートル、後円部の直径は約150メートル、高さ約30メートルで、やや後円部が大きくて前方部は広い角度に開いている。これは前期の前方後円墳の特長である。 「箸墓古墳のくびれ部」 箸墓古墳のすぐ近くの纏向遺跡も見学しようと思ったが、道が狭くてコンパクトカーでも自由に切り返せない。纏向遺跡は、邪馬台国近畿説の学者の間では、邪馬台国の政治中枢地域だったのではないかという説もある。遺跡の一部でも見たかったが、車を止めて歩いて回るしかないようだったのであきらめた。この日の夜は、昔の船旅の仲間と会食の予定があったからである。 午後3時半に伊丹空港のレンタカー事務所に車を返して、大阪モノレールに載ってひと駅の蛍が駅で降りて阪急宝塚線に乗り換える。終点が目的地の梅田だった。集合時間17時30分であったが17時前に着いたので中古カメラの難波カメラの店内をしばらく見て回る。 豆腐料理の「梅の花」で関西組2人と会食する。17階の高層階から下界を眺めながら、t日の話や互いの近況について話が弾んだ。昨年の北陸~東北日本海岸線ツーリングの帰りにも出会う機会をつくってくれたので、会うのは一年ぶり、自分の都合に合わせてくれた二人に感謝感謝である。 食事が終わってカラオケ。旅先のしかも大都会でのカラオケは格別である。都会だからといっても歌はうまく歌えないが、アドレナリンはいつもより高めに出ている感じだった。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019/10/16 03:53:59 PM
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