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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
今城塚古代歴史館と新池遺跡 昨日レンタカーを返しているので今日は電車での移動である。ホテルをチェックアウトして、大阪モノレールで南茨木駅まで行き、阪急電車に乗り換える。富田駅で降りて17日に訪ねた今城塚古墳方面に歩いた。17日に訪問した時には閉館だった今城塚古代歴史館を見学するためである。 「モノレールから太陽の塔が見えた」 大阪万博と言えば、山田洋次監督の映画「家族」を思い出す。石炭から石油へのエネルギー革命の中長崎の炭鉱から北海道で酪農経営をめざす家族のロードムービーである。 古代歴史館の展示は、出土した埴輪が復元されて多く展示されていた。ボランティアの説明者の話を聞きながら、沢山の大型形象埴輪を見て回り、継体大王の強大な権力に思いをはせた。 「復元された埴輪」 大型の形象埴輪もさることながら、復元された家形石棺が大変な大きさで重量もかなりなものと思えた。この材料石棺の材料は熊本県宇土地方から運ばれたものであることが分かっている。 最初は破片しか出土していない、最近、石橋として使われていたものが石棺のふたの部分であることが分かった。分析すると阿蘇山の噴火で流出した凝灰岩(阿蘇ピンク石)だった。850㎞も離れた場所からどうして運んだのか、有明海、玄海灘、瀬戸内海などの大豪族の力があったと推測される。 「復元された石棺」 この歴史館には継体天皇と百済武寧王との交流も展示してあった。隅田八幡神社の人物画像鏡のパネル展示があった。これは、もちろんパネル展示だけであったが、継体天皇と武寧王の間には銅鏡を介して交流があったことをこの歴史館も認めているということだろう。 「まわりに文字が彫られた人物画像鏡鏡(写真パネル)」 武寧王が継体大王に対して贈った鏡であるという説は、両者の時代は年代的にも合致するので説得力はある。倭国で強大な力を有するようになった継体大王に対して、百済の武寧王が有事の時の支援を求めて鏡を贈ったのかもしれない。 この人物画像鏡は国宝に指定されている。しかし、発見の経緯やなぜこの鏡が熊本県の隅田八幡神社に伝わっていたかという点など、今後解明されるべき点も多い。 見学を終えて、説明者の方から教えてもらった埴輪工場の遺跡に向かうことにした。暑い中を15分ほど歩くと、住宅やマンションに囲まれるようにして埴輪を焼いた窯が並んでいた。 「復元された窯の列」 正式には新池埴輪製作遺跡という。ここでの埴輪つくりの始まりは西暦450年ごろと言われる。この場所は太田茶臼山古墳(宮内庁が継体天皇の陵と指定)や今城塚古墳(多くの学者が継体天皇陵と認めている)に近く、530年ころには今城塚古墳のために10基の窯が作られたという。 「埴輪を焼いた窯の内部」 疲れたので帰りはタクシーで駅に戻ろうかと思ったが、なかなかタクシーも来ない。結局阪急富田駅まで歩いた。日ごろ運動不足の自分にとって、今回の旅は良い運動にもなった。 夕方、大阪(伊丹)空港から帰途につく。初秋の空を順調に飛んで18時30分には福岡市のヤフオクドームの上空を通過した。今年は優勝を逃したホークスであるが、CSシリーズでライオンズにひと泡吹かせてもらいたいものだ。 空港から自宅までは大阪から福岡までと同じくらい時間がかかる。田舎に住んでいると時間価値の低さを実感する。しかし、それもまた田舎の良い面でもあろう。今回の旅は多忙な日程の中でのやや強引な計画であったが、自分の中に継体大王のイメージが浮かんできてそれなりの成果があった。
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Last updated
2019/10/18 11:56:21 AM
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