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Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

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Shige&Happy@ Re[1]:実践しているデンタルケア(12/24) mabo400さんへ 一旦始めると、毎食後やら…

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2020/02/20
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テーマ:日本史(96)
カテゴリ:日本史・世界史
​現実的な民権政治家であり教育者でもあった​

 大隈重信は佐賀藩の知行300石という上士の家に1838年に生まれた。明治維新の時は30歳だったが、維新の前年に将軍慶喜に大政奉還を勧めるため脱藩して上京したが、捕らえられて佐賀に戻され謹慎処分となっている。

 佐賀藩の脱藩者への処分は重く、大隈より4歳年上の江藤新平は1862年に脱藩して京都で活動したが、帰省後に無期謹慎となった。本来なら脱藩は死罪だったが、江藤も大隈も、藩主鍋島直正からその才能を惜しまれ死を免れた。

 大隈の生家は佐賀城化の水ケ江町に保存されている。佐賀城本丸御殿から徒歩約10分ほどの、比較的人通りの少ない民家の中にある。記念館も併設されていて大隈の生い立ちから業績までをしのぶことができる。

「記念館の入り口」


(大隈家の系図や生い立ち、国家の中枢で活躍した経歴が展示してある)

 福沢諭吉は、西欧文明に触れ、主として出版によって学問の重要性を訴え慶応義塾(現慶応大学)を創設した。大隈重信は、現実的な実践家で立憲改進党を結成し、政党政治への道を開き、東京専門学校(現早稲田大学)を設立した。

「生家と大隈重信像」


(大隈は外務大臣のとき条約改正案への反対者の爆弾により片足を失った)

 大隈は、1915年の第12回総選挙のとき、東京→大阪→金沢→名古屋→東京→横浜→東京というコースで精力的に遊説を行った。各都市での演説会だけでなく、ほんの数分間の停車駅でも車窓から演説をして、集まった大衆は万歳三唱で見送るという光景が各地で見られたという。

「生家を西側から見る」


(2階部分は重信(幼名は八太郎)の勉強部屋として増設されたものという)

 彼の2度の内閣は、短期間に瓦解し大きな成果は残せなかった。しかし、幕末期に外国との交渉で成果を上げるなど、交渉術に長けていた。それが、大隈が5度も外務大臣となった理由であろう。しかし、驚いたことに大隈には外遊経験はない。彼は外国の政治制度や経済事情などを全て書物から得ていた。昨今何かというと外遊したがるする総理や大臣がいるが、大隈は稀なる存在だと言える。

 他に、記念館の展示で印象的だったのは、「女性はひげを生やさない」という言葉である。女性は自己主張や権威を振り回したりしないという意味だ。だから女性がもっと社会に進出すれば社会はよくなっていくと言った。女性の選挙権獲得運動にも共鳴し、日本女子大の創設に力を貸している。

 大衆に民権の重要性を訴える彼の演説はレコードとして残されている。記念館では彼の演説が流されていた。郷土の偉人についてこれまであまり知らなかった。今日は大隈重信について学ぶよい機会となった。やはり現地を踏むことは大切である。 
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Last updated  2020/03/02 06:39:16 PM
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