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テーマ:日本史(1738)
カテゴリ:日本史・世界史
太宰府市にある大宰府の遺跡へ
現在においてはほとんど「太宰府」で統一されているようだ。しかし、都市名は「太宰府」市で、古代の九州を管轄した役所は「大宰府」と使い分けることもある。 それは、現存する古代の印影に「大宰府」とあるからだという。しかし奈良時代の文書には「太宰府」としたものもあって、当時から混用されていたようである。太宰府市のホームページには上記のように説明されている。 つまり、「大宰府政庁跡は太宰府市の観世音寺町にある」といった具合にである。それは下の写真でもよくわかる。(大宰府政庁跡の説明版を一部拡大) 7世紀半ば、倭国(日本)と同盟関係にあった百済が、唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。しかし百済の遺臣たちは、鬼室福信を中心に百済復興の戦いを続けていました。その情勢を聞いた斉明天皇(女帝)は、皇太子の中大兄皇子を伴って百済救援の軍を率いて九州に下ります。しかし斉明天皇は朝倉の橘広庭宮(一説に現福岡県朝倉市)で没します。 中大兄皇子らは、663年に大軍を送り朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と戦いますが大敗します。百済の復活はおろか、逆に倭国は新羅からの侵略というピンチに陥るのです。 「大宰府政庁跡」 (発掘される遺物から、この広大な政庁の建設は7世紀後半と推定される) 倭国は664年に対馬・壱岐、筑紫に 防人と烽(とぶひ)を置き、筑紫に堤防を築いて水を貯えた水城(みずき)を造ります。また、百済の亡命貴族らに命じ大野城と基肄城を築かせます。そして、それらに守られる位置に九州を統括する大宰府政庁を置いたのです。 朝鮮半島の友好国だった百済の滅亡、百済復活のために送った水軍の壊滅的な敗北というダブルピンチが、逆に国内の中央集権体制の出発点となります。中大兄皇子は瀬戸内海から離れた近江で即位し天智天皇として律令国家の建設めざして内政に取り組むのです。 時代は下って899年、宇多天皇の信任を得た菅原道真は右大臣に昇進する。道真は秀才であったが、その出自は中流の貴族だった。そのため、左大臣の藤原時平から讒言され、901年に大宰権帥(ごんのそち)に左遷され、903年に58年の生涯を不遇の中で終えます。 「太宰府天満宮」 (平日で、コロナ禍の中でありながらも、結構多くの人出があった) 太宰府天満宮はその道真を祭神としている。全国の天満宮の総本社で学問の神として名高い。初詣や受験の時期には多くの参拝客がある。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/11/09 01:43:33 PM
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