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テーマ:日本史(1738)
カテゴリ:日本史・世界史
大化の改新の実像に迫る
中大兄皇子と中臣鎌足による、宮中における蘇我入鹿の暗殺。645年の乙巳(いっし)の変である。ドラマチックなこの事件は、日本書紀に生々しく記述されている。しかし、この事件は大化の改新の始まりに過ぎないのである。 乙巳の変によって豪族の頂点にいて専横を極めていた蘇我氏が倒され、天皇中心の律令国家を建設する諸改革がスタートしたというこれまでの定説に、最近は様々な疑問が出されているという。まず、以前は必ず教科書に載っていた「改新の詔」の存在自体が疑わしい。 また、大化の改新は「蘇我氏対天皇家」という単純な図式での説明も正しくない。蘇我氏のなかでも、蘇我倉山田石川麻呂は中大兄の側についていたし、天皇家一族の主導権争いという側面もあったという。 「古代史講義~邪馬台国から平安時代まで」 (佐藤信編~ちくま新書:2018年第一刷) また、朝鮮半島では660年に友好国百済が滅亡するが、斉明女帝は倭国にいた百済王子の豊璋を立て、自ら旧援軍を率いて九州に至ったという。しかし、女帝は朝倉の宮で没し、中大兄が称制のまま指揮を執ったという。 663年には、2万7000人という大軍を白村江に送るが、唐と新羅の連合軍によって大敗を喫する。このような、内憂外患の中で、「書紀」に書かれているような大化の改新が果たして順調に進んだかは大変疑問である。 671年に天智天皇が亡くなったあと、672年の壬申の乱で実権を握った大海人皇子に改革は引き継がれる。大海人皇子は天武天皇となり国司の制度を事実上実施し、役人の冠位制度も創設している。このように、天武天皇は改新の推進力となったが、686年に没した。 「古代史講義~裏表紙」 (帯にあるように、15人の気鋭の学者が最近の研究動向を簡潔に提示している) この後を引き継いだのは、皇后の鵜野讃良皇女(690年に即位して持統天皇となる)だった。律令制度を実質的に完成させたのは持統天皇だったといってもいい。乙巳の変の蘇我氏滅亡で、天皇中心の中央集権制度が一気に完成したとみる考えは、あまりにも細部を見落としていると言っていいだろう。 歴史は単なる時間の流れではなく、積み重ねって複雑に絡み合っているものである。できるだけ多面的に見て、その実像に迫ることが歴史を学ぶことなのだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/11/30 06:02:14 PM
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