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テーマ:日本史(1738)
カテゴリ:日本史・世界史
奥殿藩最後の藩主松平乗謨(のりかた)
奥殿藩と言ってもピンとこない人が多いだろう。しかし、松平の姓を名乗っているように徳川氏の先祖の血を引く名家である。もともとは旗本身分であったが、5代将軍徳川綱吉の時に加増され1万6千石の大名となっている。 松平乗謨は1839(天保10)年に江戸で生まれた。父親が病弱で早く隠居したため、乗謨は14歳で家督を継いだ。その翌年(1853年)のぺーリー来航を知り、乗謨は海防強化の必要性を強く感じている。 幼い時から聡明で、オランダ語やフランス語を学んだ松平乗謨は、領内の農民を兵士に登用し、兵制をフランス式にするなど藩政改革を進めた。こうした取り組みが幕閣の目に留まり、1863年には大番頭に登用された。これは幕府の常備軍を指揮する、軍事部門として最高の役職で戦時には幕軍の最前線の指揮者となる。 同年に若年寄に、その翌年(1864年)には将軍後見職の徳川慶喜の信任を得て老中格に推挙された。このころ、幕府の第二次長州征討軍が敗退し、14代将軍徳川家茂の死去もあり徳川慶喜が15代将軍となる。同時に松平乗謨も陸軍総裁を兼務するようになった。 「松平乗謨~佐久市教育委員会蔵」 (幕末には一般に討幕派が注目されるが、幕府側にも優秀な人材がいた) 幕政の中枢に関わった松平乗謨は、1864年には海防の重要性から領内で西洋式の城郭の建築を始める。2年後の慶応2年には石垣部分が完成している。奥殿藩は1万6千石の小藩のため、完成した五つの稜線を持つ西洋式城郭(龍岡城)は、面積で比べれば函館の五稜郭の7分の1ほどの小規模なものであった。 多くの人が函館の五稜郭は知っていても、長野県佐久市にミニ五稜郭があることは知らないだろう。このミニ五稜郭は廃藩置県によって廃城となったが、戦後に復元が進んで現代では星形をした西洋型の城郭であることがはっきり分かる。 現在、城郭の内部は小学校(佐久市立田口小学校)となっていて、普通は一般の人の立ち入りは出来ない。しかし、学校の休業日などには見学が認められている。 「龍岡城」 (城内は小学校になっていて、中央部は運動場となっている) 松平乗謨は幕軍の中枢にいたため鳥羽伏見の戦いの後は謹慎の身となるが、廃藩置県以降はその才覚を認められ政府に任用される。特に勲章制度の創設に深くかかわり,自身で勲章のデザインをするほどであった。 松平乗謨が陸軍奉行の時に、フランスの軍事顧問団の大尉の勲章をに彼は興味を持った。すると、ナポレオン三世から「各国勲章図解」が贈られてきたという。それで、乗謨はひそかに勲章の研究にあたっていた。 そういう経過から、勲章制度創設に関して松平乗謨は全くの適任であった。また、1877(明治10)年の西南戦争の時、佐賀藩出身の佐野常民が博愛社をおこし敵味方関係なく負傷者を救ったことに感銘を受けた。そして後年日本赤十字社の設立に際しては佐野常民と共に尽力した。 松平乗謨は1910(明治43)年に72歳で逝去するが、その危篤の報に接し明治天皇は乗謨に勲一等旭日桐花大綬章を贈った。自らが創設した勲章制度で叙勲されるとは、乗謨にとって最高の名誉だったろう。 ※この項を書くにあたり「殿様は「明治」をどう生きたのか2」 (河合敦:扶桑社)を参考にしました。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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