|
テーマ:日本史(1738)
カテゴリ:日本史・世界史
二度も欧州留学をした水戸藩最後の藩主
徳川昭武は1867年、13歳で兄の15代将軍徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に参加した。フランス船で横浜を出港し、スエズ運河を経て50日後にマルセイユに入港している。現在放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、若手イケメン俳優の板垣李光人(りひと)が徳川昭武を演じている。 幕末期、幕府はフランスと友好関係にあった。昭武は次の将軍として「プリンス・トクガワ」と呼ばれフランス各地で歓待された。この時の派遣団の一員として、会計担当の渋沢栄一がいた。その他に、佐賀藩から5人が参加しており、そのリーダーが後に日本赤十字社を設立する佐野常民だった。 この時日本は、幕府のほかに薩摩藩、佐賀藩が独自に出品している。佐賀藩は磁器や和紙や茶を出品して日本の産物をアピールした。また、補助員として唐津藩から野崎和一郎なる人物が参加している。 フランスではナポレオン3世に謁見し、万博終了後も幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪した。オランダ、ベルギー、イタリアの各王に謁見し、イギリスではヴィクトリア女王に謁見している。その後はパリで留学生活を送った。 「ベルギーでの使節団」 (左から3人目が昭武、この後の留学生活では髷を落とし洋装に替えた) 1868(慶応4)年1月、兄の将軍慶喜が大政奉還を行い、3月には、鳥羽・伏見の戦いの結果がフランスにもたらされ、派遣団の多くは帰国した。だが、昭武はじめ7名は残留した。倒幕に成功した新政府からは帰国要請が届いたが、4月には兄慶喜から、そのまま滞在し勉学するようにという手紙が届いている。 5月に新政府より帰国命令が届き、一行は帰国することとした。その理由は新政府の印象が悪くなることを懸念したことと、滞在費用に窮していたことである。9月初旬、イギリス船でマルセイユを出航し、11月3日に神奈川に帰着している。 「徳川昭武」 (髷を結って長刀を持っている。上の写真と同時期の撮影と思われる) ※「殿様は「明治」をどう生きたのか」(河合敦;扶桑社)より 帰国後、昭武は水戸藩の藩主となった。この時昭武は16歳、徳川御三家水戸藩の最後の藩主となったのである。箱館戦争終結後、昭武は蝦夷地開発の願いを出し、新政府から天塩地方の開発を許可された。水戸藩士の入植が始まり、昭武自身も2カ月ほど現地視察を行っている。 廃藩置県後、蝦夷地の開拓は新政府の役所「開拓使」の所管となり、水戸藩の手を離れた。自由な身となった昭武はフランス語の勉強をして、留学の機会を待った。その希望は1876年、23歳の時に実現する。昭武はアメリカのフィラデルフィア万博への派遣を希望し、政府から認められたのである。 万博終了後は政府の許可を得てフランスに渡った。一般家庭に住まい学校に通った。その後、訪欧してきた亡兄の遺児篤敬と中部ヨーロッパを旅行した。前回のパリ万博時と違って気楽で自由な旅だった。ドイツのケルン大聖堂では、1248年建造開始から630年以上も建造が続いていることに感嘆している。 「ケルン大聖堂」 (ゴチック様式で建造され、建物が全部完成したのは1880年だった) 4年間の旅を経て、1882(明治15)年に帰国している。昭武は自転車や狩猟、写真、園芸などの多くの趣味を持っていた。水戸徳川家の当主を隠居した後、兄慶喜が住まう静岡を訪ね、慶喜と一緒に写真撮影や狩猟などを楽しんだ。写真撮影には熱心で自ら現像も手がけ、現在もなお多くの写真が残されている。 幕末期には270ほどの藩があったが、各藩主は廃藩置県でそれぞれ数奇な人生を送ることになる。そのなかでも徳川昭武のように2回も西欧に留学した殿様は特別な存在だった。しかし、その見聞や知識を新政府の中で生かすことなく、兄慶喜と同様、趣味人としての人生を送った。 昭武は1910(明治43)年、腎臓病で逝去した。享年58。兄の慶喜は3年後の1913(大正2)年に、76歳で亡くなった。 ※この項を書くにあたり、「殿様は「明治」をどう生きたのか」(河合敦;扶桑社) を参考にしました。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021/09/16 03:20:55 PM
コメント(0) | コメントを書く
[日本史・世界史] カテゴリの最新記事
|