|
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
「明治維新」という言葉にによる洗脳 「明治維新」という言葉は、その当時は使われていない。人々は「御一新」と言ったようで、そこにあるのは天子様への敬愛の気持ちだ。決して江戸の市民は薩摩・長州を歓迎してはいなかった。むしろ憎悪の対象だった。 「御一新」にも「明治維新」にも「新」という言葉が使われている。自分は、「明治維新」という語句は歴史学者が創ったものだと思っていたが、これという定説はないようだ。 明治維新は天保期から始まるという説もある。だが、1853年のペリー来航からとする説が一般的だ。終わりは西南戦争の明治10年(1877年)とする考えが多いが、第一回帝国議会が開催される明治23年(1890年)という説も有力だ。 下は幕末に関する大衆向け雑誌である。ここにも、薩長史観の問題点が提起されている。この本に対する反論を読まないと、全部が正しいとは言えない。だけど、今までの通説に疑問を持つことは大切なことである。 1885年に太政官制に変わり内閣制度が発足する。初代総理大臣は伊藤博文(長州、5,7,10代目も)、2代目が黒田清隆(薩摩)、3代目が山形有朋(長州、9代目も)、4代目が松方正義(薩摩、6代目も)、8代目が大隈重信(肥前)となっている。 なんと、10代までの総理大臣の9代が薩長出身者の5人で占められていた。さらに、内閣制度創設の1885年から明治時代末の1912年までの27年間で、京都出身の西園寺公望が2回務めた以外は、薩長肥出身者で占められていた。 歴史は勝者によって残される。為政者に都合が悪いことは隠される。最近も、公文書の廃棄や書き換え、統計のすり替えなどが問題になっている。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[日本史・世界史] カテゴリの最新記事
|