|
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
長崎海軍伝習所時代の話
江戸城無血開城とともに、勝海舟の事績で著名なのは咸臨丸で太平洋を横断したことだ。日本の(オランダ製の蒸気船)軍艦が初めて太平洋を横断したのである。 日米修好通商条約の批准書を交換する正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦した。咸臨丸は随伴艦として、幕府海軍の練習航海を兼ねて派遣された。士官はいずれも長崎海軍伝習所の教員が乗船していたが役割は不明確だった。一応勝海舟は艦長だったと言われるが、その立場にあったことは、操船経験の長さなどから間違いないだろう。 「咸臨丸」 (往路では嵐にあって、サンフランシスコまで38日間かかったという) 海舟の談話にはないが、この咸臨丸には、通訳としてジョン万次郎、福沢諭吉も乗船していた。通訳にあたってジョン万次郎は、勝海舟を艦長と紹介している。 以下引用 「日本海軍の基礎」 また、万延年間には、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないで、 アメリカに行ったのは、日本の軍艦が、外国に公開した初めだ。咸臨丸は和蘭(オ ランダ)で製造した船だ。あの頃には幕府も浪人も、口を揃えて海軍の必要性を論 じたけれども、しかし軍艦は、どうして、製造するのか、金はどれくらい入用な のか、また乗組員はどんな事をするのか、一向誰にも分からないのさ。それで、 おれなどを長崎へ遣って、和蘭のヘルセレーキという人に付けて、海軍術を研究 さしたのだ。 この頃国内では攘夷論が沸騰していた。「幕府も浪人も口を揃えて海軍の必要性を論じた」という部分はそのような世情を反映したものだろう。ペリー来航後、幕府は大船建造の禁を緩め、真剣に海防策を考え始めていた。長崎海軍伝習所の創設もその一環だった。 引用続き そのころの海軍術も今日の海軍術も、原則においては少しも違わない。航海術、 運用術、機関術、算術など六項目などを毎日勉強させられたのだ。天文学なども むろん勉強したヨ。それにみな横文字でやるのだから、おれのように前から蘭学 をやって居たものは都合がよかったけれど、漢学ばかりやって居たものが多かっ たから、なかなか骨が折れたよ。しかしとにかく二年で一まず卒業する筈だった が、おれは都合六年も居って新入生を教授したりなどしたから、かなり技量を養 うことができたよ。その頃また長崎のほかに築地でも海軍所を立てて、列藩の子 弟を教育して居ったが、これらがまず日本海軍の基礎となったのサ。 ※長崎海軍伝習所は、安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備で安政6年(1859年)に閉鎖された。文中に「都合六年も居って」とあるのは、足掛け五年の間違いだろう。 ※咸臨丸は洋式船としては「観光丸」に次いで二隻目であったが、外輪船でなくスクリューを装備した船としては初めてであった。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/02/21 04:14:41 PM
コメント(0) | コメントを書く
[日本史・世界史] カテゴリの最新記事
|