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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
岡田以蔵に命を救われる
岡田以蔵は土佐藩の郷士で、別名「人斬り以蔵」と呼ばれ、多くの開国論者の殺害に関わったとされる。だが、詳しい記録も証人も少なく、「人斬り以蔵」という呼び名だけが一人歩きしている。幕末の「四大人斬り」の一人とも言われている。 初めて江戸に出たのは1856(安政3)年で、武市半平太に同行しての江戸行きだった。そこで剣術の道場に入って腕を磨いたという。一年余りのちに土佐に帰り、1860(万延元)年からはまた半平太に同行して中国九州で武術修行を行っている。2回目の江戸行きは1861(文久元)年で、土佐に戻ると土佐勤皇党に入った。その後1862(文久2)年には藩主の参勤交代の要員に選ばれ半平太とともに随行している。 「武市半平太」 (入牢中に描いたと言われる自画像) 以蔵が人切りを行うのはこの後に起こった、井伊直弼による安政の大獄が引き金になった。尊王攘夷派の弾圧に関与した者が狙われた。岡田以蔵に斬られたと思われるのが6名ほど、確証は無いが関与が疑われるのが3名ほどという。 以下引用 「京都寺町の難」 文久三年(1963年)の三月に、家茂公が御上洛なさるについて、そのころ京都は 実に物騒で、いやしくも多少議論のある人は悉(ことごと)くここへ集まっていた のだから、将軍もなかなか厳重に警戒しておられた。この時おれも船でもって上 京したけれど、宿屋がどこもかしこも塞がっているので、致しかたなしにその夜 は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで3人の壮士がいきなり俺の前に顕われて、ものをも言わず切り付けた。驚いておれは後ろに避けたところが、おれの側 に居た土州の岡田以蔵が忽ち長刀を引き抜いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。「弱虫どもが何をするか」と一喝したので、後の二人はその勢いに辟易して何処 ともなく逃げていった。おれもやっとのことで虎の口を遁れたが、なにぶん岡田 の早業には感心したよ。 当時、海舟は軍艦奉行並に昇進し、幕府要人を海路で上方(京・大坂)に運ぶ仕事をしていた。江戸と上方を何度も船で往復し、京都の町にも姿を見せていた。それにしても、幕府の要職にあったのに宿が無かったという。それほど、各藩の志士たちが多くいたということだろう。まさに京都は風雲急を告げていたのだ。 引用続き 後日おれは岡田に向かって、「君は人を殺すことを嗜(たしな)んではいけない、 先日のような挙動は改めたがよかろう」と忠告したら、「先生それでもあの時私 が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまって居ましょう」といったが、これ にはおれも一言もなかったよ。 岡田以蔵が護衛にあたったという人物が3名ほど分かっているが、その中に勝海舟、ジョン万次郎が入っている。勝海舟の護衛についたのは、海舟を切りに来て逆に海舟の弟子になった坂本龍馬の指示によるという。 海舟の件の後、以蔵は無頼の生活となり、押し込み強盗を働いて捕らえられ土佐に送られる。この後、拷問に耐えきれず仲間を裏切り勤皇党員の名を明かした。 1965(慶応元)年に打ち首・獄門となるが、土佐人の岡田以蔵の裏切りへの憎悪は残る。司馬遼太郎の「岡田以蔵」もそれを踏襲した。近年スマホゲームに登場し、粗野だが一本気な少年に描かれ、従来のイメージを転換する動きも出ている。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/02/23 06:01:48 PM
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