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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
海防の充実を目指して 神戸海軍所は正しくは「神戸海軍操練所」といい、1964(元治元)年5月に、軍艦奉行だった勝海舟が将軍徳川家茂から直々に許可を得て幕府が設置した海軍士官を養成する場所であり、軍艦建造を行う海軍工廠だった。 この海軍所について、海舟は次のように語っている。 「海軍に力を入れる」 私は世の中が乱れかけて来るを見るにつけ、どうしても人物を養成することが 目下の急務であるぞと覚ったから、神戸に海軍所を設置して、すべて海軍に関す ることがらは、非常に調査した。その当時未だ神戸の必要に人が目を着けなかっ た際に当たって、私は大いに神戸の開発を率先して苦心を極めたので、海軍所も おいおい盛大になる。諸藩の有志家もおびただしく私の門下に来るようになった。 そこで、私は既に門閥階級というものが、大いに国家の進運を妨害するというこ とを悟り得たから、その弊害を打破してやろうと思ったが、如何せん、幾百年来 の慣習は、全く親譲りの格式に甘んじて、上を笠に着るという有様だからなかな か一朝一夕に断行されるものではなかった。その点から見ると海軍の方は欧州文 明の風に吹かれて居ただけあって、門閥を打破して、大いに人材登用の便を得た のである。それがまた何故かといえば、岡には山河丘陵と幾千百と難関要害もあ るけれど、海には米国も日本ただこれ一衣帯水で、まことに四海同風という有様 だからである。特に海軍軍備はもっとも新奇軍備であるからよく人材を登用し得 たのだ。(後略) 「神戸海軍操練所跡」 (大きな錨のモニュメント、現:兵庫県神戸市中央区新港町17) このように、海舟の先見性は今の神戸の発展を見ても分かる。(ただ、兵庫港(神戸港)の起源は平清盛の大輪田の泊(とまり)、日宋貿易だといえるだろうが…)この海軍所には特に薩摩藩からの入所者が多かった。明治時代の初期海軍のトップに薩摩出身者が多かったのもうなづける。 しかし、この後起こった禁門の変(1864(元治元)年7月、京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵しで起きた武力衝突事件)の責任を問われて海舟は軍艦奉行を罷免される。また、ここで学んでいた門下生たちに土佐藩士など倒幕派が多かったことから、わずか開設から2年目の1865(慶応元)年に閉鎖される。 なお、この時に海舟は周辺の人に、この辺りはきっと値上がりするからと言って土地を買うよう勧めたという。この予言は確実に当たったわけである。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/02/26 12:34:02 PM
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