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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
人物評論~その①
この「氷川清話」で一番面白いのは「二 人物評論」の項だろう。「三 政治今昔談」も「四 時事数十言」も面白いが、幕末維新期の激動の時代に、斡旋家として出会った多くの人物を、海舟自身がどう評価していたのかという点は興味深い。 まず冒頭で「人物が知られるのは百年後」という小見出しがある。その中で次のように述べている。 全体大きな人物というものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は 百年の後だ。それも顕れるといっても、今のように自叙伝の力や、何かによっ て顕れるのではない。二、三百年も経つとちょうどそのくらい大きな人物が、 再び出るじゃ。其奴が後先の事を考えて居るうちに、二、三百年も前に、ちょ うど自分と同じ意見を持って居た人を見出すじゃ。そこで、其奴が驚いて、成 程えらい人間が居たな。二、三百年も前に、今、自分が抱いている意見と、お なじ意見を抱いて居たな、これは感心な人物だと、騒ぎ立てるようになって、 それで世に知れてくるのだヨ。知己を千載の下に持つというのは、この事サ。 <中略> 維新の時でもそうだったよ。水戸の烈公は、えらいというので、非常の評判 だったよ。実にその頃は、公の片言隻語も、取って以て則とするくらいの勢い サ。しかるに今はどうだ、日本国中で、烈公を知って居るものが、何人あるか。 成程、水戸の近辺に行ったら、匹夫匹婦もみなその名を記憶しているだろうが、 その他の土地では、誰も知らないヨ。その通りだ。天下の安危に関する仕事を やった人でなくては、そんなに後世に知らるるものではない。ちょっと芝居を やったくらいでは天下に名は挙がらないサ。 「徳川斉昭」 (水野忠邦の天保の改革を藩政に実践して成果を上げたといわれる) 水戸の烈公とは徳川斉昭のことである。常陸水戸藩の第九代藩主で、藩政改革に成功し、国民皆兵を唱えて軍制改革も行い、幕末の名君として全国に名を知られた。第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で、徳川慶福を推す井伊直弼らに対し、徳川斉昭は七男の一橋慶喜を推して井伊直弼と争った。 しかし、この政争に斉昭は敗れる。安政5(1858)年、井伊直弼は大老となり、日米修好通商条約を無勅許で調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍とした。続く安政の大獄で、斉昭は永蟄居を命じられて政治生命を絶たれた。しかし、この後水戸浪士らは桜田門外で井伊直弼を殺害し幕政の混迷はますます増してゆく。 1867(慶応2)年、徳川斉昭の七男徳川慶喜は将軍職に就く。しかし、この時には薩長を中心にした討幕派の動きが優勢になっており、幕府の権威は地に落ちていた。 ここでの、勝海舟の徳川斉昭評は大変手厳しい。如何に名君と言っても、ペリー来航以来時代の波は激しく、尊王攘夷派の中心だった水戸藩も次代の政治構想を見通せる力はなかったということだろう。 そして幕末の政治の主導権は外国留学や視察等によって新しい知識を得た西南雄藩の下級武士たちが握る。海舟も下級旗本だったが、1860年に咸臨丸で渡米し見聞を広めていた。(同行者にジョン万次郎や福沢諭吉がいた) 人物の評価には二、三百年かかるというのは、当時の時代感覚だと思う。最近の急速な変化を考えたら、人物の評価が確定するのは死後二、三十年もあれば十分と思う。つまり時代の流れが海舟生存時から見たら十倍以上早くなっているわけだ。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/03/11 02:42:31 PM
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