|
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
人物評論その③ 西郷隆盛~2
勝海舟が西郷隆盛に初めて会ったのは元治元(1864)年である。第一次長州征伐にあたって、西郷(勝との面会後征長軍参謀となっている)が、幕府の動きについて当時神戸海軍操練所の軍艦奉行だった海舟に状況を尋ねに来たのだった。 当時、長州藩は急進的な尊王攘夷論を掲げていたが、1863年に公武合体派の会津藩と薩摩藩らに京都を追われた(8月18の政変)。この失地回復を目指して京都で市街戦を繰り広げた(禁門の変)が、長州藩勢力は一掃され長州は朝敵となった。 そのような経過を受け第一次長州征伐となる。この時に幕府軍は総勢15万人を動員する。薩摩藩も幕府軍に加わっていた。薩摩と長州はもともとは対立していたのだ。初めて対面した時、海舟は41歳、西郷は36歳だった。 このとき海舟は幕府の混迷する内情をざっくばらんに西郷に話している。この時以降、西郷の中に倒幕の志が芽生えたのではないかと思う。 以下、「氷川清話」二.人物評論 西郷隆盛 の項より引用 ~前略~ 坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者 も行って会ってくるにより添書きをくれといったから、早速書いてやったが、そ の後、坂本が薩摩からかえって来て言うには、成程西郷という奴は、分からぬ奴 だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬 鹿で、利口なら大きな利口だろうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だよ。 西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。おれの一言を 信じて、たっった一人で江戸城に乗込む。おれだって事に処して、多少の権謀を 用いないことはないが、ただこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらし めた。 ~中略~ 西郷は今言うとおり、実に漠然たる男だったが、大久保は、これに反して実に 截然(せつぜん)として居たヨ。官軍が江戸にはいってから、市中の取り締まりが はなはただ面倒になってきた。これは幕府は倒れたが、新政が未だ布かれないか ら、ちょうど無政府の姿になったのサ。しかるに、大量な西郷は、意外にも、実 に以外にもこの難局をおれの肩に投げ掛けておいて、行ってしまった。どうか、 宜しくお頼み申します。後の処理は、勝さんが何とかなさるだろうといって江戸 を出ていった。この漠然たる「だろう」にはおれも閉口した、実に閉口したヨ。 これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだろ うに、さりとはあまり漠然ではないか。しかし、考えてみると、西郷と大久保の 優劣は、ここにあるのだよ。西郷の天分が極めて高い所以は、実にここにあるの だヨ。 ~後略~ ※大久保とは大久保利通のこと ※「截然」は物事の区別がはっきりしていること 「西郷隆盛像~高村光雲作:1898(明治31)年除幕」 (この像に関しては、服装、姿かたち等に関して諸説入り乱れている) 西郷は細かいことにこだわらず大局を見て判断し、細部は人に任せるアバウトな面があった。同様の考え方は勝にもあり、それだから共感しあう部分が両人にはあったのだろう。ちなみに上野の西郷像もとてもアバウトなのである。 江戸城明け渡し後の江戸の治安に関して勝が述べている。治安の乱れは官軍の振る舞いが原因だった。辻斬りや店に押し入っての強盗等をはたらく者が多かった。これらは教科書に書かれていない維新史のブラックな面である。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/03/24 05:00:22 PM
コメント(0) | コメントを書く
[日本史・世界史] カテゴリの最新記事
|