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テーマ:日本の城(17)
カテゴリ:郷土の話題
淡いスカイブルーと唐津城
月に一回以上は会議で使用する施設がある。今日はその会場で開催された「メール講座」というものに役職上参加した。かろうじて10名程度の参加があり、通信会社のスタッフからのレクチャーを受けた。 終わって窓の外を見ると、とても爽快な空気感が伝わって来た。いつも見ている景色が、とてもくっきりと見えたのだ。 「松浦川河口と唐津城」 (あの猛暑の夏の後に、自然はちゃんと清々しい秋を用意していた) 唐津藩の始祖は寺澤広高で、文禄・慶長の役に出兵し、豊臣秀吉から8万石を拝領した。関ケ原の戦いでは東軍に加わり天草地方(現熊本県)4万石を加増され、12万3000石の譜代大名となる。(1637年天草・島原の乱の後、4万石を没収) 唐津城は寺澤広高が九州諸藩の助力を得て1608年に完成させた。この時、朝鮮出兵の基地となった肥前名護屋城の資材を再利用している。(近年、石垣修復が行われ、名護屋城址から発掘された金箔付きの瓦が発見された) しかし、史実としては肥前唐津城には天守閣はなかった。幕府の隠密の諸国見回りの報告でも天守閣は報告されていない。江戸時代を通じて唐津藩には6人の譜代大名が交代で配置されたが、長崎見回り役という役目が与えられていたために、財政面で天守閣を建設する余裕がなかったためともいわれる。 現在の天守閣は1966(昭和41)年に、観光資源として桃山風の装いで建築された。唐津市は公営の競艇を開催していて、高度成長期の1960年代には財政的に余裕があった。寺沢時代から360年の時を経て念願の天守閣が建築されたのだ。 「唐津城天守閣から東方向を望む」 (虹ノ松原と東の浜が良く見える。右奥の台形状の山は鏡山) 天守閣の内部は歴史資料館となっているが、特別に貴重なものはない。ただ、天守閣最上階から眺める唐津湾の光景は一見の価値がある。東西に白砂青松が広がり、天守閣を頭部と見立てて東西の白砂青松を両翼と見立てると「舞鶴城」という別名がつけられている理由が良く判る。 ※唐津城は「続日本百名城」に挙げられている。 ↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/10/29 12:20:16 PM
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