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カテゴリ:日本史・世界史
秋高し エサに集まる 緋鯉かな
県立博物館での用件を済ませて、城跡の南側に回った。秋たけなわ、快い気分に誘われ、西陽に映える溜め池と石垣を眺めたい気分になったのだ。 この溜め池は、この名護屋城築城当時どのような姿だったのかはわからない。だが、100m四方ほどのこの池は季節を問わず水をたたえている。池の水は、城兵たちの飲み水だったかもしれないし、馬や馬具を洗ったかもしれない。 「錦鯉がいた」 (エサをやっている人がいた、緋鯉たちは争いながらエサを食べている) エサをやっていた人は、池の近くにある茶苑「海月」の指定管理者だった。話すうちに共通の知人の名が出たりした。それで話し込んでしまい、陽が傾き始める頃まで小一時間ほどため池の堤防の上で話をしていた。正面に見える名護屋城址の南面の石垣が柔らかな秋の陽を照り返していた。 「南側の石垣」 (この石垣の向こう側に、長さ120mほどの馬場があった) 馬場は、上の写真の左側(西側)の二の丸と、右側(東側)の三の丸を結ぶ連絡通路でもあった。名護屋城の石垣は、江戸時代初期の天草島原の乱を機に、要所が破却されている。一揆勢が立てこもるのを防ぐためだったと言われる。 ※写真の、赤の→の部分が破却された所 黄の←が壊されて崩れ落ちた土石 「馬場の東側と櫓(やぐら)台」 (馬場の櫓台に、名護屋城跡で一番大きい鏡石(約11トン)がある) 名護屋城址は1955(昭和30)年に国の特別史跡に指定され、日本百名城にも指定されている。名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の根拠地として諸大名に命じて作らせた。かなり急造だが、地形を生かし勇壮な城構えとなっていて、当時としては大坂城に次ぐ大規模な城郭だった。 分担した大名によって石垣の積みかたに違いがあるのも、名護屋城の特色である。次の機会にはその内部の様子も紹介したい。 ↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/10/31 04:41:22 PM
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