|
テーマ:地域の歴史について(5)
カテゴリ:郷土の話題
迷信ではなく信仰だったのではないか
今年の秋から暮れにかけて米子城(鳥取県)、竹田城(兵庫県)、倭城(韓国)と、日本の戦国期の山城を見てきた。そこで地元の山城登山を思い立った。2001年に父と愛犬を連れて登った。それは21世紀初の日の出を撮るのが目的だった。 地元の山城とは実家のすぐ北の岸岳(標高320m)の、馬の背のような稜線に築かれた岸岳城です。2001年のあとも登った記憶があるが、ここ10年以上は登っていないと思う。もともとこの山城の存在はあまり人々に知られていない。 ※これ以降、本文と写真は一致していません。 「説明版」 (古くなって見にくいが、この城は一部では「心霊スポット」といわれている) 最初の築城は南北朝時代(14世紀後半)で、この頃、城は防御に便利な険しい山上に造られた。倭寇で有名な肥前の国の松浦党という武士団のリーダー波多氏が、この岸岳城を根拠地とするようになり強固な山城となった。 「駐車場から20分で稜線に出る」 (その20分がかなりの急坂だ、ここから右の本丸をめざすして登る) 時代は移り豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、出兵した波多氏17代の波多親(ちかし)が半島南部にとどまって戦わなかったことを秀吉は問題にした。波多親(ちかし)は筑波山へ追放され、一族郎党は浪人となった。中には、無念に思い自決する人もいた。だからこの山城周辺では「岸岳末孫の祟り」という言い伝えが残っている。 「三の堀切」 (幅は狭い、石塊を切り崩して作ったようだ。登山者のため木橋がある) 私の少年時代、まだ田畑が昔のままで農道やあぜ道はくねくね曲がっていた頃、田畑や道端に径10mほどの土饅頭みたいな(塚)が沢山あった。私の里は岸岳城の直下の集落だった。やがて、機械化農業を進めるため田畑を方形に整理する「耕地整理」が始まった。わが家の畑も塚をブルドーザーで壊わすことになった。 「二の堀切」 (この空堀は幅もあり、石垣はかなり強固に造られている) その時、突然ブルドーザーの運転士が腹痛を起こした。このことははっきり記憶している。これは、まさしく「岸岳末孫の祟り」だったのだろう。人々は400年近く敗者を悼んで祀ってきたのに、その塚を壊そうとしたからでしょう。運転士の人にも、塚を壊すという行為に、後ろめたさや恐れがあった思います 「本丸跡」 「幅30~40m、長さ100mほどの狭い平地、柱の礎石などは見えない」 「岸岳末孫の祟り」はもちろん迷信です。でも、多くの塚を祀ってきた人たちは、科学的な考えが無い時代、敗者を悼むという善行で救われようとしたのでしょう。「岸岳末孫の祟り」はこの地域の一つの信仰だったのだと思います。 波多氏廃絶のあと松浦地方を与えられたのは寺沢広高で、秀吉が亡くなった後は東軍に加担した。波多氏時代は岸岳城の大手門があった相知町佐里が松浦地方の中心だった。その後寺沢氏が松浦川河口に城下町を建設したことにより、現在の唐津市の中心部が松浦地方の中心地となった。 ↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/01/07 01:22:45 PM
コメント(0) | コメントを書く
[郷土の話題] カテゴリの最新記事
|