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テーマ:唐津・呼子について語ろう(32)
カテゴリ:最近撮った写真
広い砂州と化していた東の浜 唐津湾の東の浜が、大潮の干潮時に広い砂州になっていた。遠浅だけに、満潮時の波打ち際から約80m以上も歩いてゆけた。初めて見る光景だった。 「唐津城を見上げる」 (戦後建てられた鉄筋の天守閣だが、観光唐津のシンボルである」 振り返ると、鏡山と虹ノ松原といった唐津の観光名所が見える。空が曇っているのが残念だが、普通なら海中となる砂浜から見上げる松原と鏡山が新鮮だった。 「虹ノ松原と鏡山」 (松浦佐用姫は山頂から領巾(ひれ)を振って狭手彦を見送ったという) 虹ノ松原は唐津藩の初代藩主寺沢氏の手によるが、鏡山には松浦佐用姫と大伴狭手彦の悲恋伝説が伝わる。大伴狭手彦は6世紀中ごろ新羅征討に向かう途中、松浦地方の豪族の娘の佐用姫と恋仲になった。 狭手彦が海を渡るとき、佐用姫は鏡山から着物の領巾(ひれ)を振って別れを惜しんだという。だから、鏡山のことを別名「領巾降り山」とも言う。 「鏡山の山頂にある展望台」 (展望台の向こう側に、領巾を振る松浦佐用姫の像がある) 大伴狭手彦のことは、『日本書紀』では宣化天皇2年(537年?)の条に出てくる。新羅が任那を侵略したので、狭手彦は任那を守り百済を救ったという。また、欽明天皇23年(562年?)には大将軍として高句麗を討ったという。 「うみねこ」 (かもめの仲間では日本全国で年中見られる唯一の留鳥) そのほか、『肥前国風土記』の松浦郡条や『万葉集』巻5に、狭手彦と弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている。それで鏡山は日本三大悲恋伝説の地と言われている。まんざら根拠が無い話でもなく、領巾を振った佐用姫のその後のことについてはさらに悲しい物語が残されている。 ↓ランキングに参加しています、良かったらクリックをおねがいします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/05/01 10:09:44 AM
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