|
カテゴリ:伝承するもの
先月末、ブログアップした”亮昌寺”さんが、 洞爺湖のキー・ワードであり、 ”有珠善光寺”さんは、有珠山のキー・ワードのようです。 ◎有珠善光寺の沿革 比叡山の僧であった慈覚上人、恐山にて ”阿弥陀如来”を有珠山に安置するよう告げられる ↓ 826年 自ら彫った本尊を有珠山に安置 ↓ 1457年 コシャマインの乱 ↓ 有珠山噴火のため有珠の海辺にお堂を移す(現、地蔵堂) 1612年 松前藩主慶広公は、夢のお告げで有珠と言う ところにお寺を建てるようにと ↓ 1613年 有珠に如来堂を再興し、阿弥陀仏を安置し ”善光寺”と名付ける ↓ ※織部灯ろう(1624~1643) 隠れキリシタンを松前藩7代当主が、かくまったが 隠し切れなくなり、有珠善光寺へかくまってもらう ↓ 1663年 有珠山大噴火 ↓ 1666年 円空さん来訪 ↓ 1667年 シャクシャインの乱 ↓ 1768年 有珠山噴火 熱雲発生 ↓ 1804年 徳川家より「蝦夷三官寺」として指定 ↓ 1822年 有珠山噴火 アブタコタン全滅 ↓ 1853年 有珠山噴火 ↓ 1943年 昭和新山隆起 ↓ 1977年 有珠山噴火 ↓ 2000年 有珠山噴火 ここで隠れキリシタンのお話しが出てきましたが、 この”善光寺”さん今回の長野でのオリンピック聖火リレーで 宗教者の立場で毅然とした態度を見せてくれましたが、 他宗に対しても許容範囲の広い対応をされているようです。 宗派を超えて目指すところは同じですね~! 灯ろうの下の部分にマリア母子像が彫られています。 そしてこちらに本堂が移る以前のお堂 現在”地蔵堂”となっている瓦には、 三つ葉葵の水戸家の紋章が入っていてそこにも 隠れキリシタンの立て札がありました。 こちらの代々の住職は、アイヌの方たちに信頼され、 三世の住職は、お経をアイヌ語に翻訳し布教され、 七世・八世・九世(嘉永4年~明治13年)の住職は、 アイヌの方からの信頼が大きかったそうです。 和人がアイヌの人々に対して正々堂々と交易して いなかったことも沢山のお話しに出てきますが、 有珠善光寺・新高野山亮昌寺のようなお寺の存在が、 かろうじて信頼をつないでくださっていたことに 感謝します。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年06月05日 01時00分04秒
コメント(0) | コメントを書く |