テレビからのメッセージ
1日の夜、テレビを観ていて二つのことが心に残りました。一つは”クローズアップ現代”学校に対する親からの現実にあった要望の内容1、ある親からうちの子供だけ見て欲しいと要求される2、給食費を払っているのだから、うちの子供が休んだ時には 給食を自宅へ届けて欲しい3、自分の子が怪我をさせられ学校を休むのだから、加害者の 子を同じ期間休ませるべきとの要求4、自分の子が廊下に立たされたことに腹を立て担任の先生を 辞めさせるようにと訴え、人質に自分の子供を登校させないそのほかにまだまだ、私の子育て時には、考えられない学校への要求の内容に含まれていました。話題になるようなお話しを選りすぐったとはいえ、いったい子供の未来は・・・と学校側は朝と放課後の時間帯に親からの電話の対応に追われている現実があると・・・もう一つはニュースから今回が最後となる沖縄本島での遺骨の収集の報道戦後62年になるのですが、例年行ってきた遺骨収集は参加者の皆さんが高齢になってきたため今回が最後となりますと・・その中にお母さんの遺志を継いで参加されている63歳の女性が一人いました。彼女の父は南方の島で戦死し、彼女が1歳の時でした。あるとき彼女の母が、南方の島へは体力的に無理だけれども沖縄であれば戦死者の方の遺骨を拾いに行けると参加されていて、そのお母さんが亡くなられ、彼女はお母さんの遺志を引き継いで遺骨拾いに参加されていました。その様子はまだ手付かずの洞窟での遺骨収集、中には子供の骨と思われる小さなものもあり、地元の犠牲者も多いのでしょうね。遺骨は62年ぶりのお日様の光を浴び、きれいな布で大切に磨かれ、その彼女の言葉から「この犠牲となった方々のお陰で今の自分がいます」と遺骨を愛おしそうに優しく扱われているのが印象的でした。この二つのことを見て、感じたことは、片方は相手に要求している。それは自分が攻撃されない対象物に強い態度で接し、自分の寂しさ悲しさを発散していることに気付かず生きている。それを何度繰り返しても自分の心は満たされないことを知らずに・・・もう一方は、記憶にない父を偲びながら、自分と母の二人の暮らしを生きながら、犠牲になった方々への感謝の気持ちで生きている、そこに幸せがあるように感じるのでした。前者は自分の子供は可愛いという親の条件付きの”愛情”で後者は大きな”愛”と感じました。人が問題を起こす時には、根底に淋しさがあると言います。今、核家族が進み年長者に気を遣わず気楽に過ごせるその反面に、心の淋しさが潜んでいると感じます。年長者は私達の体験したことのない厳しい時代を生き抜かれてきました。他人と自分の言い分のバランス感覚も持ち礼儀作法も身に付けられています。身近にいる年長者の素晴らしい知恵を拝借しませんか。