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テーマ:サッカーあれこれ(20129)
カテゴリ:サッカー
名選手と讃えられた人が監督になると「自分のようなプレー」を選手に求めがち。
チームが負けても、図々しく「選手の力不足」と言う。 監督としての仕事を放棄し選手に責任転嫁する。 それでもファンは有難い言葉として拝聴する。 国民的な英雄ほどその傾向は顕著だ。 一方、選手時代に活躍できなかった監督は、「自分のようなプレー」を選手に求めない。 監督としての役割に専念する。 チームが負ければ、自分の力不足と思う。 そういった謙虚な姿勢であれば監督としての力がつくのは当然だ。 しかしファンは「勝ったのは良い選手のおかげ」と思う。 いつまでたっても本当に有能な監督は評価されない。 名選手だった監督は選手を育てない。 棚からぼたもち式に「自分のような選手」が現れるのを待っている。 選手の選考をするための眼もない。 なぜなら、なぜ自分が名選手だったのかわからないからだ。 実際、統計的にWCで強いチームの監督は、選手時代に目立った活躍がない。 正直、この事実には驚かされる。 WBC(野球)で王監督が率いる日本が優勝したのは、例外だ。 選手としても監督としても世界的な名声を得た王氏は、例外中の例外。 WBC自体まだ歴史が浅く、サッカーの世界ほどの厳しさがないという側面もあるだろう。 王氏は元世界的な名選手でありながら監督としての役割の重要性を知り、責任の重さを知っていた。 そのような人の出現は、極めて稀なのだ。 今回も優勝候補のブラジル・パレイラ監督(ブラジル国籍)にいたっては、プロサッカー選手としての経験がない。 フィットネスコーチの訓練を受け、後にサッカーをその専門とするようになった。 そのパレイラ監督いわく 「大事なことは、ピッチで何が起こっているかを把握し、選手を管理することができるといった適性です。私はサッカーのコーチになろうと考えたことはありませんでした。でも人生のある時点で、経歴と経験から、この挑戦を受け入れるべきだとほとんど義務のように感じるようになったのです」 日本とは比べようもない偉大なブラジルのサッカー史を鑑みると、この言葉は大変重い。 監督に必要な資質は、カリスマ性ではなく、冷静な観察力と分析力、選手を管理する能力、コーチとしての精進を怠らない謙虚さなのである。 そういえば某監督は、選手の管理を放棄し自由にやらせた。その結果チームとしてバラバラになったの一目瞭然。 某監督は史上稀に見る無能さをさらした。 サッカーの監督として無能であるばかりでなく、詐欺師だったとさえ思う。 本大会前までは、選手に対する寛容さを強調した上で楽天的な発言を繰り返した。 ところが、本大会での敗北で手のひらを返したように、敗因を選手だけに押しつけた。 監督としての無能さのみならず、人間の悪い部分までさらした。 いや、人間性に問題があれば監督は務まらないのかもしれない。 仏教にこういう言葉がある。 『詐欺師とはつき合うな』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年06月24日 07時16分46秒
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