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カテゴリ:読書案内「翻訳小説・詩・他」
マーク・トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒けん」柴田元幸訳 研究社
子どもの頃に、少年少女向けの全集で、「トム・ソーヤーの冒険」に夢中になった人は、きっとたくさんいらっしゃると思います。ところが、いつもなら続けて読むはずの「ハックルベリー・フィンの冒険」には飽きちゃったという人も、同じようにたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。 こういっては何ですが、飽きちゃうんですよね、実際、子供は。長すぎるからか、筏に乗って川下りする物語の展開が退屈なのか。そのまま、なんとなく「子供向けやしなあや。」とか何とか言いながら(言わんけど)、半世紀がたってしまったというのがぼくの場合ですね。 子どもころの、なんとなく退屈だったという評価というのはオソロシイものです。たとえばヘミングウェイはこんなことを言っているのです。 「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』にはじまり、『ハックルベリー・フィン』以上の作品はまだない。」ね、最高の賛辞といっていいでしょう。こういう言葉を読むと心が動くんです。にもかかわらず、というか「でもなあ?」という気分のためか、手に取る気がしないのです。 やっぱり、見た目が長くて、退屈しそうなんですよね。岩波文庫版も光文社文庫から新しく出た古典新訳版も上・下二巻ですよ。書店の本棚をのぞき込みながら、まあ、「トム・ソーヤー」は読んだからなとか、ミシシッピあたりのことなら、やっぱりフォークナーやろとか、アメリカ文学の始まりは「緋文字」と「白鯨」やろとか言いながら(言わんけど、ホンマに書店の棚の前で口に出して言うたらアブナイ人ですやん、まあ、最近限りなくアブナイ人化してはいますけど)棚を移動してしまいます。 考えてみれば「白鯨」なんて辞書を読んでるみたいな退屈さだし、ホーソンもフォークナーもお手軽に「楽しさ」に出会えたりするわけではなかったのですが、まあ、一応一度は読んだという自己満足にすがり続けて、ハックルベリーに会いに行こうとはしない30年が過ぎたというわけです。 で、最近、一週間に一度だけ出かけているお仕事先に、立派な図書館があります。探検を兼ねて、うろうろしていると、研究書とか、だれが読むんだろうといぶかしむ論文集が並ぶ新着図書の棚に研究社版の「ハックルベリー・フィンの冒けん」がマッサラのまま鎮座していました。 そういえば、ときどきで会っておしゃべりする「ミネルバ」と「フクロウ」みたいな若いカップルの、まあ、男性のほうが、フクロウ氏かミミズク君だなと、これは、確信していて、当然、女性のほうはミネルバさんということになるのですけど、彼女がミネルバ?と、こっちの方は疑問符なわけで。 だって、「知恵の女神」っていうのは、やっぱり褒めすぎだし、フクロウがとまっている「小枝」ちゃんと呼んだ方がよく似合うじゃないかと、ぼくが勝手に名づけている、その小枝ちゃんが「柴田元幸さんって知ってます?朗読会があって、これ買ちゃったんです。」と、うれしそうに見せていた、あの本だ。 ユリイカ!とはもちろん叫びませんでしたが手に取ったままカウンターへ。というわけで、初めての図書館で、新入荷、新刊本の衝動借り、漸く、長年の「宿題」、ハックルベリー・フィンとお出会いしたわけです。 アメリカ文学の気鋭の翻訳家、いやもう大ベテランの実力者というべきでしょうね。その柴田元幸が工夫に工夫を凝らした新訳です。もちろん、英語版を読んだことがあるわけもないぼくが、そんな偉そうなことをいうのは気が引けるわけですが、お読みになれば、なるほどと納得なさることは請け合います。 「おもしろい!」 柴田元幸の翻訳のせいなのか、マーク・トウェイン本人のせいなのか、それはわかりません。 たとえば「ジム・スマイリーの跳び蛙」(新潮文庫)のような短編集に出てくるアホ話がマーク・トウェイン流の真髄なのでしょうが、アホ話としかいいようのない出来事の連続の中で、ハックルベリーが「これでいいのか?」と悩みながらも、逃亡奴隷ジムと漫才タッグを組んで、終わりのない時間ともいうべきミシシッピの流れにのって語り続けるのを読むのは大人の読書の快楽そのものです。 「トム・ソーヤーの冒険」の主人公は、相変わらず冒険物語の主人公で、村芝居に熱中する庄屋のアホ息子といった役回りなのですが、ハックもジムも、その、あまりといえばあまりな「ええしのアホボン」ぶりに困惑し、呆れながらも、親友トムを立て、坊ちゃんトムにヨイショします。 ここまで読んで、少年時代のぼく自身が、何が好きで、何に夢中になっていたか、なぜ、ハックルベリーの物語が退屈だったのか、ようやく得心したのでした。 なるほど、トムにあこがれた少年たちは、学校でいい点を取ったり、おばさんに褒められるのがうれしい生活の続きに小さな現実からちょっとだけはみ出す夢を見ていたわけですから、筏に乗って大河ミシシッピの流れにまかせた、ハックが生きている、大きくて、滔々とした、時間の流れは退屈で我慢できないにちがいなかったのです。 「本をつくるってのがこんなに厄介だってかわかってたらそもそもやらなかったし、これからもやる気はない。けどどうやら、おれはひと足先にテリトリーに逃げなくちゃいけないみたいだ。というのも、サリーおばさんがおれのことようしにしておれをしつけるんだなんて言いだしていて、おれはそんなのガマンできない。もうそういうのはやったから。おわりです、さよなら、ハック・フィン。」 最後にこんなふうに挨拶して物語から去っていったハックルベリー・フィンは、今もミシシッピの流れにいかだを浮かべてのんびり下っているに違いありません。 ちなみに、トム・ソーヤーはきっとゴシックロマンかなんかの小説家にでもなっていることでしょう。 長年ほったらかしにしていてすみませんでした。傑作でした。(S) 2018/07/06 追記2019/05/08 大人が読む小説としておしゃべりしていますが、柴田さんは、やはり小学生高学年から中学生当たりの読者を考えて翻訳されていると思います。 いくつかのエピソードを、一つ一つの物語として訳されている印象で、一つ一つ、飽きが来なくて、読んで面白い話が出来上がっているのではないでしょうか。 中学生とかが、この翻訳を読んで、小説好きになってくれればいいなあ。それが一番の感想ですね。ゲームとはちがう物語の時間というものの面白さがあると思うのですが。 ボタン押してね! にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.09 19:00:47
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