|
カテゴリ:読書案内「翻訳小説・詩・他」
100days100bookcoversno48 (48日目)
エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(上・下) (河島弘美訳 岩波文庫) YAMAMOTOさんご紹介の『日本語が亡びるとき』の著者である水村美苗は、『本格小説』という小説の著者でもありますが、この小説には印象深い思い出があります。かつて職場の同僚だった女性から、 「この10年間に読んだ小説の中で、突出して面白かったです。ぜひ読んでみて下さい」 と勧められた小説なのです。 はたして読み始めると、面白くて止まらなくなりました。『本格小説』という妙なタイトルは、水村の前作『私小説』と対比をなすものなのだと思いますが、それだけではなく、社会的なドラマをダイナミックに描く「本格小説」というジャンル(聞き慣れませんが、大正時代に中村武羅夫という作家が提唱したのだそうです)の「メタ小説」として書かれています。 けれどもそれは、「メタ」であることが信じられないほど面白く重厚な、大ロマン小説でした。しかも読み進める途中で、これが19世紀初頭のイギリスでエミリ・ブロンテによって書かれた『嵐が丘』を下敷きにしていることを知ったのです。 この出会い方によって、水村美苗は特別な作家のひとりになりました。なぜなら『嵐が丘』は人生のごく初期、中学生の時に読んで感銘を受けた小説のひとつであり、エミリ・ブロンテは、この1作だけを残して30歳で世を去った孤高の作家として、長く憧れの人物だったからです。 『嵐が丘』エミリ・ブロンテ(河島弘美訳、岩波文庫) 若い頃に熱中したこの小説について、いま何かを語ろうかという欲望が、じつは私の中にはありません。すでに「自分にとっての古典」であり、私の一部をつくってくれた糧のようなものだからです。けれども、『本格小説』を読んだ後、おそらく30年ぶり(もっと長いブランクかもしれません)くらいに『嵐が丘』を再読してみると、ダイナミックな「物語」に心躍った若い頃とはまた違う感慨がありました。 ヨークシャーの荒野と吹きすさぶ風、丘に建つワザリング・ハイツ(「丘」という地勢、言葉に対して特別な意識を持つようになったのもこの小説のおかげです)、ヒースクリフという「異端」を迎えてしまった家族、そして、荒野に隠棲する神聖な、あるいは悪魔的な何かと出会うことによって、ヒースクリフのなかで顕在化したキャサリンへの過剰な情念、それによって変容してゆく世界で、何代にもわたってふたつの家族に起こる悲喜劇。 小説のなかで変容してゆく世界は、召使いのネリーの「語り」によって物語になるのですが、不思議なことに、読んでゆくうちに物語の枠を超えて、そこに身を置いているような錯覚に囚われます。ラストの寸前で、ひとりの羊飼いの少年が死んだはずのヒースクリフとキャサリンを荒野で見かけて、恐怖のあまり泣きながらネリーに訴える場面があります。このふたりの姿はネリーの目には見えていないのですが、読者には見える。羊飼いの少年に見えたように。絶えることのない荒野の風音とともに、まなうらに見えてくるのです。 物語が、というより、荒野そのものの意志が、それを見せているのではないのだろうか、 小説の主人公は「荒野」なのではないのか、 という気分におそわれ、もしかしたら、それは 小説の「極北」 のようなものなのかもしれない、とふと思ったのでした。 『嵐が丘』については多くの作家や評論家が言及し、エミリ・ブロンテの評伝も出ています。けれども、この小説自身を読むことにまさる体験はないのではないかと、いまでも思います。 最後に映画好きとしての蛇足の情報を。これまでに『嵐が丘』は6度映画化されています。日本でも、舞台を日本に移し、吉田喜重監督の手で映画化されました。各国内で映画化されたものは情報として日本に届かない可能性もありますので、ほんとうはもっと多いかもしれません。この日本版と、たしかローレンス・オリヴィエ主演の最初の映画化版を観た記憶がありますが、どちらも原作には及びませんでした。ドラマ的には映画化できそうですが、荒野の「荒野感」、ヒースクリフの過剰さを映像にするのはとてもむずかしいのだと思います。 今回は小説を読み直さず、ほとんど勢いだけで書いてしまいました。それではKOBAYASIさん、お願い致します。(K・SODEOKA・2020・11・04) 追記2024・03・17 追記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.17 22:06:53
コメント(0) | コメントを書く
[読書案内「翻訳小説・詩・他」] カテゴリの最新記事
|