チェン・カイコー「さらば、わが愛 覇王別姫」(2)シネリーブル神戸 SCC、シマクマシネマクラブの第9回例会です。前回の第8回「薔薇の名前」を「暗いですねえ!」と一蹴されたシマクマ君、かなり焦って💦提案したのがこの映画です。こんどこそ大丈夫!
まあ、チョット気合入ってましたね。何といっても、シマクマ君のここのところ数年の映画体験のなかではベスト10に入りそうな作品ですからね(笑)。
見たのはチェン・カイコー監督の傑作、「さらば、わが愛 覇王別姫」でした。
で、結果はいかに?
「あのー、紅衛兵が主人公の二人と、覇王役の妻の三人をつるし上げるシーンを見ていて、この監督には、どこか、非人間的な残忍さというか、見るに堪えない精神的な暗さがあるんじゃないかという気がして、しんどかったですね。」
「あわわわわ・・・・」
しばし、絶句!です(笑)。
「非人間的というのは?」
「いわゆる、人間性の否定ですね。ああいう、表現というか、映像にも、もう、気分的についていけませんね。」
「うーん、あのシーンは、一応、史実なんですよね。文革での糾弾闘争という形式は、たとえば、著者は鄭 義という人だったと思いますが、「食人宴席」(光文社)という本があります。その後、中国が買い占めて市場から消えたといういわくつきの本ですが、カッパノベルです。そこで暴露していますが、凄惨極まりなかったということですね。まあ、事実かどうか、よくわかりませんが、ボクは、四方田犬彦がどこかで紹介しているのに促されて読んだことがあります。反革命だと糾弾された人を、最終的には殺してしまい、その肉を食らうという、まあ、中国ヘイトの人が喜びそうな、ほとんど猟奇的な記述がありましたよ。ついでに言えば、日本のなかでも、その闘争形式は、70年代後半の反差別闘争の中で模倣されたようで、もちろん殺すなんてことはしていませんが、批判の対象になる「差別者」のつるし上げは、公開というか、その人の住居を取り囲んでやってました。普段の生活での発言や生活信条に焦点を当てて糾弾し、人格の否定に至るという闘争(?)を、その人間が暮らす町や村の人々を「参加しなければ差別者だ。」という、暗黙の脅しで動員して大衆的(?)にやっていましたよ。村の有線放送で、糾弾会の動員指令が流されたりしていましたから。文革でもそうですが、その後、その闘争団体が自己批判した話は聞きませんから、50年という時間とともに忘れられるに任されているわけですが、正義を標榜したときに、人間というのは酷いことをするものだというのが、当時20歳だったボクに刷り込まれた人間認識ですね。人間性なんて信用できるんですかね?」
「芸術表現とヒューマニズムの関係はどうなんですか?」
「うーん、ボクはこの作品は主人公、小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)と石頭・小樓(チャン・フォンイー)の、究極の愛の物語、だから、実に人間的な作品だと思うのですがねえ。」
というわけで、シマクマ君、チョット、口調がやけくそ気味ですが、人の好みというのものは難しいですね。仕方がないので、ここからは独り言です。
最初に断っておくと、この映画では、多指症の少年の指が切り落とされるシーンから始まりますが、京劇の修行シーンは、ひたすら、虐待まがい、イヤ、虐待かな、の暴力の繰り返しですし、主人公二人の生きた時間は、近代中国が直面した政治的暴力(戦争・革命)の最中です。しかし、そのシーンが映画に描かれることが、映画制作者や監督自身の暴力的な志向の直接的に表現されていたとはボクは思いません。
で、映画ですが、この映画の題名には史記の項羽本紀にある「垓下の戦い」の覇王=項羽と姫=虞美人の別れを、「覇王別姫」(覇王、姫ト別ル)として京劇にしたお芝居の題名が使われています。
映画で、二人が演じる劇中のセリフは、史記ではこの詩です。高校の教科書に出てきます。
力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋う
時不利兮騅不逝 時利あらずして 騅逝かず
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざる 如何すべき
虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 若(なんぢ)を如何せん
項羽のこの詩に答える虞美人の返歌はこうです。これは教科書にはありません。
漢兵已略地 漢兵、已に地を略す
四方楚歌聲 四方は楚の歌聲
大王意氣盡 大王の意気は盡く
賤妾何聊生 賤妾(せんしょう)、何くんぞ生を聊(やす)んぜん
史記には、虞美人の最期は書かれていませんが、京劇では項羽の刀で自刃するようです。映画の中に小豆子が「われは男にして、」と、繰り返し間違えるセリフがあります。「われは女にして、男にあらず」が正しいのですが、そのセリフは虞美人の返歌の賤妾何聊生と響き合っていて、哀切です。
史実、芝居、現実、という三重に重ねられた世界で、父親を知らず、母親に捨てられた小豆子は、生まれつきあった6本目の指を役者になるために切り落とされ、「われは男にして」というセリフの間違いを、相方の兄弟子・石頭によって暴力的に矯正されることで、一人前の役者として成人します。
その結果、史実でも、現実でもない、虚構の芝居の世界に閉じ込められて成人した小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)が、「お前は女だ」としつけてくれた覇王役の兄弟子・石頭・小樓(チャン・フォンイー)の賤妾になることは必然というほかありません。
まず、現実の社会と古典芸能の相克を近代中国史を背景に描きながら、その世界で、演じるという「人間的なワザ」を奪われて、人形にすぎない役者の人生を生きるよりほかの方法を知らない、世間から見れば天才役者の悲劇でしかありえない人間の孤独な一生を描いた傑作だと思います。
映画は、薄暗い舞台で、覇王と虞美人の扮装で再会した二人のシーンで始まりましたが、次のシーンでどんな結末を迎えることになるのかを、始まりからの50年をたどるために3時間に及ぼうかという熱演で描いているのですが、じつは、その結末は、1000年以上も前に予告されていたのでした。
四面楚歌の中、大王の意気が儘きた時、姫は死ぬほかなかったのでした。
賤妾(せんしょう)、何くんぞ生を聊(やす)んぜん
これを小豆子・蝶衣(レスリー・チャン)の人間的悲劇といわずして、何といえばいいのでしょうか?役者でしかない命を舞台の上で絶つシーンに至るまで、悲劇を悲劇として演じ切った、レスリー・チャンの妖艶さに拍手を忘れて目を瞠りました。
ボクは傑作だと思うのですがねえ(笑)
この作品で、役者としての頂点に立ったレスリー・チャンが、2003年、自ら命を絶って、この世を去ったことを思うと、やはり、胸が痛みます。
監督 チェン・カイコー陳凱歌
原作 リー・ピクワー
脚本 チェン・カイコー リー・ピクワー
撮影 クー・チャンウェイ
音楽 チャオ・チーピン
キャスト
レスリー・チャン
チャン・フォンイー
コン・リー
フェイ・カン
チー・イートン
マー・ミンウェイ
イン・チー
フェイ・ヤン
チャオ・ハイロン
1993年・172分・中国・香港・台湾合作
原題「覇王別姫」「Farewell My Concubine」
日本初公開 1994年2月11日
2023・07・31・no99・シネリーブル神戸no203 ・SCCno9
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