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カテゴリ:映画「シネリーブル神戸」でお昼寝
ジュリアーノ・モンタルド「死刑台のメロディ」シネリーブル神戸 「エンニオ・モリコーネ特選上映 Morricone Special Screening×2」という企画で、神戸ではシネリーブル神戸で上映されている作品です。予告編を見ていて、ジョーン・バエズの声が聞こえてくると、まだ20代だった学生の頃に見た頃のことがわらわらと浮かんできました。 「Sacco e Vanzetti」という、まっすぐな原題の作品が「死刑台のメロディ」という邦題で公開されていて、どこかの名画座で見ました。50年程も昔のことです。
歴史的な冤罪事件の映画化が事件の50年後に実現し、その50年後に映画音楽の特集上映で再上映され、今年70歳になるの老人は、50年ぶりに 「これがアメリカだ!」 と再確認したのでした。 国家権力としての、暴力国家としての「アメリカ」 ですね。 見たのはジュリアーノ・モンタルド監督のイタリア映画「死刑台のメロディ」です。 映画はフレーム・アップ、でっち上げの冤罪事件の真相を告発するドキュメンタリーの雰囲気で始まりますが、メインに据えられているの、フレームアップがいかに進行していくのかを、神に誓った真実のことばがやりとりされている「法廷劇」として描かれていました。 この年になってでしょうね、とりわけ面白かったのは権力者の言葉と、反権力者、抵抗者の言葉の違いを、実にクリアに描いていたことでした。 権力者は、あくまでも言葉の表層に拘泥し、揚げ足取りやアジテーションによって、権力の象徴であり、抽象的で、超越的な「法」の網に取り込むことができるかのように相手の言葉を誘導します。何の力もない、その社会の言葉である英語だってうまくしゃべれるわけでもない、一人でそこに、さらし者のように立っている人間が発することばに対する解釈の権力性を臆面もなく主張している姿を活写していました。 たとえば、現場に残された銃弾が32口径であれば、今、目の前にある32口径から「発射されたと言えないことはない」という論旨が、「発射されたにちがいな」へと変わっていく権力的な「ことば」の扱い方の描写は、バンゼッティの最後の言葉である 「正義とは何かを証明するために生まれてきた。」 というような、内的真実の叫びというべき「ことば」の吐露と好対照でしたね。 裁判から判決の過程で精神的安定を完全に失いながらも、そこから回復した、もう一人の主人公サッコが 「利他を尊べ」と子供に遺しながら、大人に対してはことばを捨てて殺されていった姿にも打たれました。貧しい、流転の人生を生きてきたこころを支える、正直で素直な言葉の存在を共有できないことへの怒りと絶望の沈黙という印象で、この人の姿に 人間的な真実 を感じました。 エンニオ・モリコーネの映画音楽の企画なのですが、音楽としてはHere's to Youを歌うジョーン・バエズの歌声以外は、まあ、気付かなかっただけかもしれませんが、実に静かな(?)会話劇の印象でした。 サッコとバンゼッティを演じる二人を始め、法廷に登場する人たちの、見ているこちらを、今でもシラケさせない堅実な演技に時代を感じました。50年前、単純な告発映画として見ていたということを実感しましたが、 サッコの沈黙については気づいていたようです。ボクにとってはしみじみと拍手!の懐かしい作品でしたが、できれば、若い人たちにも見てほしい作品ですね。 民主主義を標榜しているアメリカの底に流れるもの、アメリカにかぎらず権力のやり方、まあ、そのあたりは50年変わりませんね(笑)。 監督 ジュリアーノ・モンタルド 脚本 ファブリツィオ・オノフリ ジュリアーノ・モンタルド 撮影 シルバーノ・イッポリティ 音楽 エンニオ・モリコーネ 主題歌 ジョーン・バエズ キャスト ジャン・マリア・ボロンテ(バンゼッティ) リカルド・クッチョーラ(サッコ) シリル・キューザック(検事) ロザンナ・フラテッロ ジェフリー・キーン(判事) ミロ・オーシャ(弁護士) ウィリアム・プリンス(弁護士) クロード・マン 1971年・125分・イタリア 原題「Sacco e Vanzetti」日本初公開1972年5月 2024・04・22・no060・シネリーブル神戸no239 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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