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カテゴリ:読書案内「社会・歴史・哲学・思想」
結城正美「文学は地球を想像する」(岩波新書) 市民図書館の新刊の棚に「文学は地球を想像する」という表紙があって、副題に「エコクリティシズムへの挑戦」という言葉を見たときに、あなたならどう反応しますかね?
新しいものにはついて行けない! ボクの場合、まあ、ここのところ、その自覚と諦めで暮らしているわけですから、こんな題名は素通りが相場なのですが、手に取ってしまったんですよね。 で、これが、結構、どころか、チョー面白かったというわけです(笑)。 著者は英文学がご専門で、エコクリティシズムとやらに挑戦なさっている50代の女性研究者のようですが、「地球を想像」という大きな話はともかく、なにはともあれ エコクリティシズムってなに? なのですね。 「エコクリティシズム(ecocriticism)」は、「エコロジカルな文学研究(ecological literary criticism)」の略で、「文学と物理的環境の関係についての研究」と定義される。漠然とした定義にみえるが、この間口の広さがエコクリティシズムの最大の特徴だ。 というのが、本書の冒頭での定義です。生真面目な方なのでしょうね。普通の「文学好き」の人は、ここでページを閉じそうです。 ハハハ、たとえば、間口云々以前に、 物理的環境って何? なわけですが、まえがきにその説明は、まあ、あるような、ないような、ですが、たとえば、「自然環境」、「地球環境」、「生活環境」、という具合につかう、環境という言葉を総称しているようですが、まえがきの結論は、 自然環境、都市環境、地球環境をめぐる文学的想像力を見ていくことにしよう。 でしたが、まあ、ここから何をなさりたいのか、予想がつきませんね(笑)。 で、第1章で話題にされている文学的想像力というのはソール・ベロー「森の生活」から始まって、シートン動物記です。「見ていく」ための視点として導入されるのがジョン・バージャーという美術史家(?)の「進歩の文化」、「生存の文化」という概念です。 第2章では灰谷健次郎の「兎の眼」が出てきて、赤坂真理の「空地論」(「愛と暴力の戦後とその後」(現代新書)の中のドラえもん論にあります。)が参照されます。 第3章では石牟礼道子「苦海浄土」、梨木香歩「雪と珊瑚」。なんか、この取り合わせが、ちょっとぶっ飛んでるんですが、読むと納得ですね。 第4章はアレクシエーヴィッチ「チェルノブイリの祈り」、小林エリカ「マダム・キュリーと朝食を」、カズオ・イシグロ「クララと太陽」と来て、続けて、多和田葉子からリチャード・パワーズへと、めくるめく展開でたたみかけていきますが、読み終えて納得しました。最近では、とんとお目にかからない、正真正銘の「文芸評論」、あるいは「文芸批評」そのものなのでした。 ただ、ボクのような古い世代には「エコクリティシズム」というのが、まな板なのか、包丁なのか、はたまた皿に盛られた料理の種類なのかにまず戸惑いますね。で、とりあえずまな板の上で捌かれる作品の切り口、だから 読解の過程 が、ボクなんかの普段の読み方とは違うわけで、そこでも、やはり戸惑いながらなのですが、 「そうか、そういう読み方で見えてくるものがあるか!?」 まあ、そういう感想ですね。 チョット、自分に照らしていえば、50年近く文学好きとやらで暮らしてきて、まあ、目の前の対象に 「こんなもんだろう。」 と硬直し切った判断を下す「視点・視覚」というのは、自分自身の「まな板」や「包丁」を対象化することが難しいのですね。どうしても、懐手をして、聞いた風な感想をいうということの繰り返しになってしまっています。 映画を見ても、音楽を聴いても、まあ、似たようなことが起こります。新しい作品に出逢っているはずなのに自前の古い包丁で捌いてしまう。包丁やまな板の扱い方というのは、ボクに限らず、それぞれの人の経験の結果ですから、更新することが難しいことはわかっています。しかし、新しい包丁やまな板の使い方で、同じ作品の切り口が変わって、味が変わってくることを、ちょっと気づき始めることは、やはり刺激的でした。 とりあえず、まあ、やたら長いですが、目次を貼っておきます。ボク自身には、小林エリカという作家の発見が事件でした。 まあ、いずれ案内できればと考えていますが、もう少し咀嚼の時間が必要なようですね。
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最終更新日
2024.09.23 00:13:56
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