移民ストーリー孤立
レストランの話の前に説明したいことが幾つかあります。
私自身、そして家族を守るため、その引き換えに失ったものがあったんです...
それは家族同様の間柄にまでなった職場、親友、バンドメイト達、そしてロック魂だったんです。
そんな私にとって一番心が砕け散った事は音楽活動がゼロになってしまった事でした。
えっ!? そんな事?という声が聞こえそうですが...
私にとってそれは、ただのそんな事じゃないんです。
そして、それはただ音楽が好きだから!という訳でもないのでした。
私の将来の野望の為、夢、目的の為にはとても重要なことだったのです。
私にとって音楽活動は私の社交の場でもあり、アメリカでビジネスをする上での大切なマーケットの一つだったからです。
私はロックバンド時代、50%ミュージシャン50%ビジネスマンの実務のこなしかたをベーシスト兼マネージャーをして学びました。
実務の内容は、ほぼ全ての事をやり、覚え、学びました。
バンドの練習設定、連絡業務、メンバーの聞き役、説教、励まし、録音スタジオ、技術者の面接や手配、ライブ会場、イベント企画、バンドロゴデザイン、バーナー制作、バンド商品、ブッキング業務、チラシ製作、ラジオ、新聞宣伝手配など
私はリアルな仕組みと実情、基本をこれらの活動から学ぶ事が出来ました。
アメリカに住んでいる日本人移民として学べた事に感謝しております。
特にアメリカ人ライブバーの経営者、イベント関係者、マスコミ関係者との交渉、交流には日本人としての印象と知性を最大に生かせる事が出来ました。
(具体的な内容はサロン等で提供する予定でございます。95%の具体的情報は直ぐ実行出来きて、アメリカ流交渉の成功率アップを期待して構わないと思います。もし貴方がある特別な英語の言い方、アメリカ人の習慣を知っていたならば...おまけに最近のAmazon,Nike 関係者からの情報も載せる予定です。)
2000年初頭の日本社会では、そして私の世代以上の当たり前の社会人常識では、普通日本人30歳、家族持ち、子持ちの環境のおっさんが旦那、父親として音楽で食べていく、プロにアメリカで成りたい!などは決して許され、認められることはなかったんです。当たり前ですけど。
しかし、その当時に既にアメリカ社会では長い間当たり前に認知されていたし、それほど私自身には罪悪感はありませんでした。日本の家族に対して意外は。
勿論、日本の家族が認める訳がありませんでした。むしろ大喜びでした。やっと正常、普通に生活をするようになる!と安心していました。
そして家族の安心感を加速させるような出来事が...
私がブライアンに別れを告げ職を失ってから、僅か2時間でレストランの職場で働くことになってしまったのです。
つづく...